『スカジャンとスタジャンの違い』

 

桐生は帯の町として繁栄した。戦争が終わって戦前から見れば洋装が増え、和服共々帯の生産は減少した。

 

 

まだ日本が終戦して混沌としていた頃、アメリカ人向けに横須賀の商人からジャンパーの背中に虎や鷲、龍の

 

 

力強い刺繡を編み込んだらという注文が来た。横須賀で売るからスカジャンと呼ばれた。スタジャンは、

 

 

スタジアムで選手や観客が着る防寒服であるが、スカジャンはアメリカ人に土産用に作られた派手なジャンパーのことだった。

 

 

値段がかなり高価だったから日本人には買えない。日本人が買えるようになったのは、福生や上野アメ横あたりで

 

 

吊るされ売られ始めた昭和40年代以降と思われる。当時服装がまだ地味な日本人にはとても着れない代物だった。

 

 

一寸不良っぽいにーちゃんなら着れた。

 

そのスカジャンの展示が当時の製造元桐生の「歴史文化資料館」であった。あくまで基本刺繡の展覧会であって

 

 

打掛等の展示の中で「スカジャン」も含まれると言う「美術刺繍と海外展開」の企画展である。現在は自動刺繍で仕上がるよう

 

 

で、昔は手縫いであったため日数が非常に掛かった。それは中東などの織物絨毯と同じである。横須賀では当然

 

 

「スカジャン」と言ったが桐生では「キリジャン」と言った。誰でも知ってる全国区にはならなかったが織都として

 

 

桐生は日本で有名な都市だった。

 

 

 

 

画像>刺繍のふるさと桐生として3月17目まで展示

 

 

 

 

画像>場所:桐生歴史文化資料館

 

 

 

 

画像>休館日は月・火 入場料無料 是非御照覧の程を。

 

 

 

 

画像>スカジャンの評判が米兵に及ぶと来航する空母の名前入りとか部隊名とかも即販売したと言う

 

 

 

 

画像>富士山や日本の名所、米軍基地のマップ等も刺繍され、人気を呼んだ。

 

 

 

 

動画>クレイジーケンバンド横山剣「スカジャン・ブルース」

 

 

追加:スカジャンを特集した本を図書館の職員が見つけて、市外図書館より借り受けしてくれたので、ここから

 

 

『スカジャン』東洋エンタープライズ小林亨一 前身は港商(株)枻出版社   に沿ってお伝えすると

 

 

スカジャンと言われたのは横須賀に在駐していたアメリカ兵がベトナム終戦後、国に帰るようになってから

 

 

日本人たちが言い始めた。それ以前はスーベニア・ジャケットと言われていた。お土産品としてPX(施設内にある小売り)

 

 

で販売していたが、人気があるので駐屯地周辺の洋品屋や土産物屋も港商に注文を取り(➡製造元桐生織物業者)

 

 

販売するようになった。デザインは最初虎・龍・鷲が多かったが朝鮮戦争~ベトナム戦争~デザイン・生地も

 

 

変遷していく。やがて商売になると分かれば日本だけでなくヨーロッパ、とくにドイツ製のスカジャンの出来栄えがよく

 

 

売れるようになった。

 

 

 

 

画像>ドイツ製?スカジャン

 

 

 

 

画像>数は少ないが白色のスカジャンもある。

 

 

 

 

画像>ベトジャンと言われる迷彩服に刺繡を施したスーベニアもある。スカジャンは枝葉別れして種々雑多ある。

 

今は絹製が当たり前だが、当初は粗末な生地だった。それをシルクだと偽って米兵に売っていた。リバーシブルなのは

 

 

袖が汚れてよれよれになるので生産者が考えた。勿論裏表に刺繍のデザインが施されている。私が見た桐生展示のスカジャンはリ

 

 

バーシブルには見えなかった。(監視がいて触れないので正面が見えない)どことなく薄手で小さめ、これはGIが着れないだろ

 

 

うと思ったら、土産用が主と聞いて納得した次第。後中味の綿も当時は貴重品で余り手に入りにくく、粗悪だったため着ていると

 

 

下がってヨレた。それを防止するためキルティング加工して販売した。気づかなかったが成程古いものはキルティングされてい

 

 

る。

 

私は今更この年になってスカジャンを着る勇気はないが、職人肌の気質に惚れてスカジャン・デザインを多くの人に知って貰おう

 

 

と、桐生に足を運びブロガーの皆さんのお伝えするものである。3月まで展示しているのでもう一度行って再びアップしようと思

 

 

っている。