二つの漫画で知る“Nike”の歴史
ナイキのロゴ 漫画で描く眉のようなマークを矢鱈と見だすようになって久しい。タイガー・ウッズからマイケル・ジョーダン
今では日本のプロ野球選手のスパイクからウェアに至るまで,あのスウッシュと言われるマークが目に入る。
然し私のようなおじさんにはナイキのシューズは高くて買えない。うちの息子が中・高時代丁度、ジョーダン人気たけなわの頃
バスケットをやっていたから、ジョーダンのダンクに因んでNikeを履いていたようだし、通学時のスニーカーもナイキの靴を
履いていたように思う。この前下駄箱を整理していたら、本物かどうか分からないが24.5㎝のNikeマークがついた
スニーカーが出て来た。過去に家人の誰かが履いたものだろう。私が無理して履こうとしたが駄目だった(26.5㎝の足長)
―————ナイキの創始者はフィル・ナイトと言うオレゴン州生まれのアメリカ白人だった。野球が好きだったがレギュラーに
なれないので、母親から陸上ランナーを進められた。球技が得意でない位だから短距離走ではなく、日本の田中希実のように
(12/30BlogUp)中距離走を鍛錬した。そしたら大学コーチのバウワーマンにしごかれて、みるみる走力がアップした。
二人はもっと早く走るにはシューズの改造が必須と意見の一致を見た。フィル・ナイトは起業家の資質を備えていて
或る年海外旅行へ出かけた時、日本にも立ち寄った。その時アポなしで有名なシューズメーカーを訪問しようと思った。
この頃アメリカにも知れ渡っていた「オニヅカ・タイガー」と言うスポーツメーカーである。私は御幼少の頃、布のボールで
三角ベースをしたが、打つバットに「虎印」の刻印があった。親に買ってもらったバットだがこのメーカーだろうか?
ここへ飛び込みで社長に直談判「貴社の製品のアメリカでの販売権利をください」
「君の会社の名は?」まだ会社を作っていなかったから、思い付きで「ブルーリボンスポーツです」
それから数か月過ぎて日本からオニヅカタイガーシューズが届き、会社の実態もないフィル・ナイトはコーチの
バウワーマンの賛同も受け、積み込んで全米の陸上競技場で走っているランナーに売り込んでいった。1960年代の
話しである。段々売れてくるとオニヅカタイガーとの利害関係から収支が付かなくなり、名前もナイキと改めて再出発を図った。
1971年のことである。ナイキとはギリシャ神話の戦う女神のことで命名は多数決で決め、ロゴのデザインは「キャロライン・
デビットソン」にしてもらった。デザイン料35ドル、出世払いで後々キャロラインにダイヤモンドの指輪と60万ドル分の
ナイキ株がプレゼントされた。それから全米の著名なスポーツ選手を広告塔として売り上げを伸ばしていった。
オニヅカタイガー社はアシックスと名前を改めたが、今ではナイキの足元にも及ばない売り上げグラフを示している。
靴底やエアのアイデアや宣伝広告費もライバル会社の追随を許さない。スポーツシューズの大事な点は少しでも後ろに
下がらない靴の開発。100走でいえば走れば、爪先で跳んで何㎝か何㎜か後ろに下がる。それを下がらず前進したなら
タイムはより良くなる。現在走者皆9秒台なのも訓練だけではなく靴にかかる比重が高いことを物語っている。
ナイキシューズの日本での大騒ぎは2~3年前箱根駅伝で爪先立ちのシューズが高速化を生む原因と話題になった。
確かに記録は縮められたが足への負担も強く、故障者が随分出たらしい。練習は従来のスポーツシューズで走り、
本番のみ爪先立ちシューズで好タイムを狙う選手がいた。踵を着地しないで競う競歩はあるが42.195㎞のマラソンや
箱根駅伝を走る若者には鉄足ではないから骨や筋肉が持たない。箱根駅伝でテレビカメラが足元をアップすると
皆が皆アウッシュ・ロゴのナイキマークで機関車のように走っていた。全部が全部ではなくアシックス・シューズも
走っていたが、歴史は繰り返す嘗てアメリカの産業を日本は真似して一時期ナンバー1となり、日本のやり方を
学んだアジア諸国は日本を抜いていき、アメリカさえもスニーカー産業を学んでナイキが世界一の靴屋になった。
日本にカムバックする何か新旧産業は生まれないんだろうか?