続・文書館「家康の関東入国と上野国」

 

前回に続き沼田城がいかに潰されてしまったかを古文書で読む。

P8504 新治村猿ヶ京区 有文書 No.233より

 

沼田城は天文元年(1532年)12代沼田氏顕泰が築城したもの。倉内城と言った。

その後武田家家臣の真田昌幸が入城し、嫡子信幸が秀吉より2万7千石を賜り、初代沼田城主となった。(天正18年・1590年)真田氏はその後5代信利まで城主を務めたが

天和元年(1681年)江戸両国橋用材伐出し遅延と失政の名目で改易となった。

 

改易とは平民になること。屋敷の没収。切腹より軽く、蟄居より重い刑罰に当たる

絵図は破却の記録として描かれたもの。

 

 

 

画像>倉内城絵図  👆

   長楽寺掟書  👇

 

長楽寺掟書 寛永20年(1643年)9/17

くそ坊主?天海は慶長17年(1612年)長楽寺の住職に任命された。掟書は20条あり、家康の月命日の法要を行うこと、末寺は季節の挨拶を欠かさぬこと、末寺は門徒の

葬儀について本寺に相談することなく、行ってはならない。師僧の命に背く弟子は寺から追放する・・・・・・。厳しい内容が綿々と綴られている。

 

絵文字羅列➡立ち上がる歩くハイハイうさぎのぬいぐるみうさぎ笑ううさぎ汗うさぎ泣くうさぎよだれおやすみ

 

武田家定書 天正4年(1576年)2/25

   青野一枝家文書 No.1

 

武田勝頼が長根・小幡氏家臣の人質交換を命じた文書。人質の女子が成人したので

帰郷させて欲しい訴えがあった。代わりの人質を出して補うことで了承している古文書。

差出人は勝頼ではないが文言や朱印から勝頼の命令であったことが窺われる

 

 
 

画像>武田家定書   👆

   滝川一益判物  👇

 

 

 滝川一益判物  天正10年(1582年)3/28

   浦野安孫家文書 No.2

   一益が極楽院に対して上野国の山伏(修験者)の年行事職を安堵した文書、武田領国から織田領国の支配下となり上野国は一益が支配することになった。しかし3か月後

本能寺の変で、事は一変したのは承知の通り。

 

絵文字を羅列する➡ゲッソリ真顔酔っ払いニヒヒチーンちゅーデレデレウインクムキー笑い泣き

 

 

統一される上野国、徳川家康の関東入国後、即検地

上州緑埜郡中大塚屋敷打水帳 松平新「 」

天正19年(1591年)2/6  小林小五郎家文書 No.7

 

水帳(検地帳)の  上・中の等級が記され、坪で示される。効率よく年貢(税)

を徴収するため、検地は最優先課題であった。

 

画像>検地  👆

 

 

 

画像>禁制  👇

 

禁制  慶長17年(1612年) 4/12

    飯塚馨家文書 No.2464

    幕府領三波川郷 東御荷鉾山では山札を持っていれば、草木の刈り取りは許されていた。然し当山の「御公方御用木」を切ること、限度を超えて草木を取ることを取り締まった古文書。本来は木札に書かれ掲示された。よくこういうの時代劇見てるとありますな。太田呑竜の山も昔は幕府領の山でマツタケが取れ、江戸城にマツタケを運んだ。民が入れないように監視がいたという。

 

しかし日本は昔から識字率が高いのか武士から町人まで書き残した文書が多い国ですな。

お陰で何百年前以上の出来事から生活まで垣間見ることができる。学生時代古語と英語が嫌いだった。実際の生活に関係ないと思うリアリストであったわけ。でも今考えればもう少し古典や異国語を勉強しておくべきだったなと悔悟している。

 

 

 

 叫び耳グーチョキパーグッド!あし目ドクロ合格