伊勢崎藩の善政と浅間山大噴火
天明の浅間大爆発(1783)からおよそ240年の歳月が経つ。その時伊勢崎に住んでい
た人々はどう噴火に対処し、災害はどうであったか、4日行われる講演のうちの第1回が
赤堀公民館であった。
画像:>パンフ
浅間の大噴火と言うと近くの鎌原村の被害が甚大で、昭和(54年)に入って観音堂の階段
を重機で掘り起こしたところ、逃げ遅れた親子らしい白骨が二体出てきて話題になった。
後数段登れば、ほかに助かった93人の中に入れたのに火砕流に飲み込まれた悲惨な
姿だった。何せ日本有史以来最大の大噴火であったから同じ県内(浅間は長野群馬県境)
の伊勢崎の町(当時は藩)にも砂塵が降り積もり、燃え滾った溶岩は吾妻川から
利根川へ移り、大木・死体まで運んできた。噴火音は遠く京都まで鳴り響いたというから
如何に大きな噴火であったことが伺われよう。こういう国家の異常な自然災害の時、
問われるのが為政者のリーダーぶりである。その時伊勢崎藩の藩主や家老はどう振舞った
のか?と言うのが今回のテーマである。
画像:>浅間山 たまに白煙が上がることもある。
画像:>会場 50名限定である。
画像:>2mの泥流 私の背以上ある。
伊勢崎の藩主は江戸にいたので現場での采配(救済)はナンバー2の関当義・関重嶷(し
げたか)親子が執り行った。その模様は関重嶷が記した「沙降記」に詳しい。このように
藩の要人が噴火・被害状況を日夜記している記録は珍しい。伊勢崎ではもう一人常見浩斎
と言う人物が「天明浅嶽砂降記」を書いていて、二つを照らし合わせると如何に生き地獄
であったか思い知らされる。二つの日記で分かることは➡火山噴出物の降下が落ち着いた
後、迅速に家老が被害状況を視察。火山噴出物の降下による田畑への被害、土石流による
家屋の被害、藩主が慈悲を施し、庶民を飢餓に至らせることはしない・・・・。
リーダー自ら視察している。被害復興のため各地に出張、洪水の流言の鎮静化と
避難対策に苦慮し、家老自ら村の泥さらいも敢行したとある。あとは復興に際して
幕府から資金の援助を募ること、これも再三再四関重嶷が粘り強い交渉を重ねた結果
幕府による復旧工事を約束させて被害地としては速い復旧を見た。伊勢崎において
関重嶷が後世偉大な人物と言われる所以である。次に懸念された問題は打ちこわしの
騒動である。通常でも飲まず食わずを強いられている農民にとって年貢が納められるはず
はなかった。伊勢崎藩では即年貢は免除した。しかし他藩では無頓着で年貢の納があった
ため各地で500人規模の百姓一揆がおきた。コメ問屋や裕福な商人の家が破壊された。
それが伊勢崎では起こらなかったことは家老等の読みの深さと思われる。
逆に伊勢崎藩に大勢の農民が押し寄せるので打ちこわしかと思ったら、太鼓が鳴るので
城が危ないと思って救助に来たという応援団だったという記録がある。
講師の栗原佳氏はこう結んでいる。江戸時代こういう賢明なリーダーが育った環境は
朱子学が学問として行き渡っていたからではないか。机上だけでなく行動学と言うことで
すかね。藩では村上玉水と言う朱子学者がいて武士の教育に当たっていた。この教えが
不慮の災害が起きた時活用されたのではないかと言っている。非常事態における
役人の行動と仁政、庶民の協力を勝ち取り,危機に見舞われながらも未然に事件を
防いだ根本に朱子学があったのではないかと言っている。現代の為政者に
対してもチクり!2世3世ばかりの議員は庶民の力になるんでしょうかね。答えは否であ
る。そんなことは皆分かっているけど政治に関心のない大多数の国民は大きな打撃を
受けないと目覚めないのである。線状降水帯に活火山、地震に隣国の脅威、我が国を取り
囲む難題は目白押しである。庶民も為政者も時に備えて頭と体を鍛えておかなくてはなる
まいね。そして為政者の監視もね。仕事ができない役人に高額な税金は払いたくないね。
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