『玉村町に紙芝居屋がやって来た❣』
伊勢崎市と玉村町は近隣である。そこに紙芝居屋がやって来ると言うので見に行った。外は生憎の雨で室内で行われたが
大道具の自転車の後部席に小さな紙芝居ボックスはあった。参加者は子泣きから
洟垂れ爺迄ロケーションは完璧。怖~い話に取り掛かると前席の
小坊主がママ~と言って泣き出す。年寄り連中は昔を懐かしんで
視聴している様だった。私は御幼少の頃、紙芝居は一回しか見ていない。前橋に住んでいて、遊ぶエリアではない広瀬
湯?と言う大衆風呂屋前で紙芝居屋が来ると言うので、テリトリーから外れて悪たれ坊主達は見に行った。何をやったか
覚えていない。覚えているのは練り飴のボリュームと旨さ。確か10円だったのだろうと思う。駄菓子屋へ握りしめて行っ
たコインが10円の時代だからね。何でも10円あれば楽しめる昭和30年代だった。大人になって紙芝居屋は今回も含めて
5回目くらいになる。ここ玉村町の文化会館で一回、桐生の豪華な文化会館で一回、土屋文明館で1回、伊勢崎神社内で
一回、さすがに飴は舐めないが
今回の企画ではコインを一枚渡されガチャガチャで景品を貰った。
又紙芝居屋さんが書き損じたと言う芝居絵を一枚だけ持って行っていい、
と言うサービス特典があって伊勢崎の歴史紙芝居の中の一枚を貰って来た。今回の紙芝居屋さんは脚色・絵・語り、全部
をこなす片亀さんだった。紙芝居3本目の「ああ~ 上野駅」では懐かしい井沢八郎の歌まで聴かせてくれた。他の二本
は教訓的な「わたしのちいさな勇気」地元玉村の伝説を教える「妖怪の手と角」だった。
僕らの小学生時代授業で紙芝居を見た記憶は薄い。それより印象深く残っているのが「幻燈」教室を真っ暗にしておと
ぎ・昔話を聞いた。
先生は自分が語る手間より機械で見せて一時休息を取りたかったのかもしれない。何せあの頃一クラス48人、教室は机椅
子でギッシリ埋まり中学に入ると同じ48人、10クラス編成だった。ライバルもいっぱいいたが気の合うフレンドも沢山い
た。今じゃ考えられない学園風景だった。だってモノを売る如何わしい商人が下校時の子供を待ち構えている物騒な時代
で、学校側PTAもそんなこと知らないんだからね。
それ位供給対象であったと言うこと。今でも団塊の世代は商売上、それが続いている。あと10年もすれば団塊の人も少数になる。けど
紙芝居屋さんは増える傾向にあるんだそうな。
画像:パンフ>
画像;片亀さんはハットを取るとはっと?するスキンヘッドだからね。
画像:2016年トドスズキさんの紙芝居 関西の人で紙芝居の裏には筋書きがない。全部暗記して語る人だった。
追加>妖怪の紙芝居が終わった後、演者の片亀さんは子供たちに「妖怪はいると思う人?」と尋ねた。すると多くの子供
たちは「いる、いる」と元気な声を上げた。我が家でも「座敷わらし」はいると信じて止まない家人がいる。夜になると
「カタ、カタ、ギシ、ギシ」音がするのは、この妖怪が悪さをしていると思っているのである。今度
原田龍二に来て調べて貰おうか?妖怪ついでに「ゲゲゲの鬼太郎」のことを話すと、私は子供の頃この番組に嵌った。よ
くできた妖怪マンガで漫画家の水木しげる氏を尊敬していた。水木しげる氏のコミックでは「墓場の鬼太郎」として描い
ていたのだが、お茶の間にアニメとして登場する際、墓場では好ましくないと言うテレビ側の意見で
「ゲゲゲの鬼太郎」と改めた。随分video撮り(VHS)して保管もしていた。然しずっと後でわかったことなのだが、こ
の墓場の鬼太郎は
水木氏のオリジナルではなく、戦前関西の方では「墓場奇太郎」と言う紙芝居が人気だったと言う。それは「黄金バッ
ト」に対抗する位の
人気で筋書きが悍ましく、不気味さがウケたと言う。紙芝居を観ているといい所で「ではまた、明日来てね!」連続ドラ
マ仕立てだからこういう商売である。子供相手の商売だから幾らにもならないだろうが、絵心のある若者は終戦後仕事も
ないので紙芝居屋になった人もいたと言う。でも知らなかったな、ずっと鬼太郎は水木氏のオリジナルと信じていたの
に・・・・・。



