現代に甦れ!塩原太助は凄かった❣

 

世に偉人は数々いれど 現代人に知られていない

 

御仁も沢山いる    江戸や明治の時代では

 

誰もが知っていたけれど 平成、令和と世が世知辛くなるにつれ

 

少しづつ名前が廃れていく偉人の多いことよ。

 

その中にみなかみ出身の塩原太助がいた。

 

画像:上毛かるた>

 

この前匠の里へ旅した時 何十年振りかで太助饅頭を食った

 

餡子が絶品、歴史ある土産の逸品

 

40数年前夏まで必ずR17 を車走して三国峠を越える時、

 

カーブの地点でいつも見た饅頭店と塩原太助公園

 

今そこには愛馬「あお」と太助の銅像が屹立している。

画像>継母とうまくいかず、江戸へ出るには愛馬との別れがあった。繋ぎの松が沢山ある事よ。

 

私が魚屋と間違えた(一心太助)薪炭問屋塩原太助はこの稼業で莫大な資産を得た。昔も現代も金持ちは、その金を金庫や甕に貯

 

めることだけに精出した。然し江戸本所に住まいを持つ塩原太助はちょっと違った金持ちだった。公共事業(橋作りや灯篭建設)や

 

社会に対して、私財を惜しみなく投じる人だった。江戸庶民は皆太助をこう呼んだと言う「十万石大名」

 

現代はCO2排出で炭は悪者扱いされているが,江戸・明治時代昭和初期まで照明・調理・暖房あらゆるエネルギーの源だった。

 

今それは発展途上国の工業電力の原動力でもある。塩原太助は非凡な人である。豪商になるような資質の持ち主は何でも着眼が

 

違う。太助は散らばっている炭の粉を糊で固めて「タドン」として売った。誰も考えない発想だった。二宮金次郎も誰も使わない道端

 

を開拓して畑にしたと聞いたことがある。昔の偉人は共通点が多い。節約節制・・・勤勉、孤高。

 

だから当時横行した金は役人賄賂に使う商人とは別格な発想をした。

 

町民や村民の為に多い暗がりを案じて、大きな灯篭を山間部や波止場に作る人助けをした人だった。榛名湖を望む天神峠や金毘

 

羅さんの出港地丸亀の灯篭は太助が資金を出して建設したもので有名である。では何故太助が修身の教科書や歌舞伎等で持ては

 

やされたのか?ここに登場するのが意外な偉人、「牡丹灯籠」で有名な落語家初代・三遊亭円朝だった。円朝は江戸本所に二代目

 

太助なる人物が狂死した話を聞くにつけ、落語のネタ作りに色々調査した結果、世の為人の為社会に奉仕した初代・塩原太助の偉

 

業を知った。

 

円朝はこの人物の生涯に大いなる関心を抱いた。金精峠を越えてみなかみまで通うこと数度、三年がかりで仕上げた落語人情話が

 

「塩原多助一代記」だった。虚構織り交ぜ感動人情話に仕上げているから本名太助を多助に変え、高座で一席ぶった。これが実像

 

+虚構の人物像が受けて多くの賛同を得た。芝居になる前から炭屋の太助は江戸では有名人であった訳だから・・・・。上毛かるた

 

で題材となったのもまだ終戦直後では偉人として余韻があったからでしょう。

 

でもちゃちな世の中になっても、世の中捨てたもんじゃない。

 

平成24年歌舞伎では国立劇場で坂東三津五郎が「塩原助」を公演して拍手喝采された。平成2728年には今は亡き落語家、人

 

情話の大御所桂歌丸が、あの重症の身体で高座に上る。40分にも及ぶ「塩原助」を1部・2部と自ら書き換え語ってくれた。歌丸曰

 

く「生きている内に塩原太助の業績を皆に伝えたかった」と弟子の桂歌助が語っている。歌助本人も師匠のライフワークを引き継

 

ぎ、「塩原助一代記」を円朝原作に沿って語っているとか・・・・・。

 

 

塩原太助は三遊亭円朝が太助の偉業を調査、語り部になったことで、人情噺の天才歌丸に引き継いでくれて、少しは平成人の耳と

 

心に江戸・群馬の純朴さが伝播されたように思う。有難う桂歌丸師匠、そして三遊亭円朝師匠、安らかに眠り給え!三人の魂は永遠に行き続ける。