「太宰治の笑いの方法」斎藤講演

 

2年ぶり位で土屋文明記念館にて講演を聞いた。横山秀夫氏の「ノースライト」インタビューを聞いて以来の快挙である。当館も講演

 

を開催したい、我々も講演を聞きたい、それがやっと叶って結実した。

 

今群馬県は警戒度「1」になっている。以後もコロナに邪魔されず、実のなる文化人等のお顔とお声に接したい。

 

画像:パンフ>

 

一般的に太宰治の文学的印象は自暴自棄、破滅的、ダサイ生き方。

 

時代を反映して暗いストーリーと思われているが、意外に笑いを誘い、意識した小説が多いと1975年生まれの斎藤理生〈まさお〉阪

 

大教授は仰る。そして「畜犬談」「懶惰の歌留多」「眉山」の3作品を取り上げ検証した。確かに言われてみれば小さな笑いを生み出

 

す内容に相違ないが、テーマとしては心許ないし、説得力の足しにならない。太宰治は自らの破滅的・無頼な生き方を私小説風?に

 

して、文壇に登場した作家だから、こっちの方が脚光を浴びて、小笑いについて斎藤教授は太宰治の微々たる側面を堀り下げたに

 

過ぎない。私が50年前学生の頃、太宰治は元々落語を勉強した作家で笑いや話の落ちを書くのが上手い作家と言われていた。そ

 

れにサービス精神が旺盛な方で、気の毒なほど相手のことを気遣う人。そんな所から、心許ない、頼りない、道化のような振る舞

 

い、女性に甚大な人気と同情があった。含羞の笑いとは太宰治のことを差すと長年思って来た。タイトルはそういうピエロ的な太宰

 

治の生き方がテーマなのかなと思って来たが、作品の中に登場する些細な笑いを拾い集める作業だった。

 

太宰治のような大作家になると主要な分析は既成の文芸評論家等によって大体検証されてきて、誰も気付かない細かい解析を要

 

ものしか残されていないと言えば、そうも言えるけど・・・・。

画像>文明記念館前の立て看板

画像>展示室前の太宰風景 太宰治の笑いの文章の中には執筆中、睡眠薬や覚醒剤併用飲用で支離滅裂なペン回しがあることもなくはない。

画像>群大准教授時代、何度もベスト・ティーチャー受賞の人気。

その当館教え子が今回展示と講演を依頼してくれた

画像>道路に隠されたトリック・アート マンホールの穴から亡霊が現れたようなイラストですな!

 

今日渡されたレジメで面白いなと思った箇所は太宰治と漫画家の東海林さだお氏のエッセイは似ていると言う点だった。

 

東海林さだお氏は沢山の変わったタイトルのエッセイを出されていて、売り上げが多いから現在も延々と続刊されているのだろう。

 

東海林氏本人も作風が類似していることを認識していて、それは日常の何気ない営みを微分化、異化する、身につまされる感覚の

 

おかしさと斎藤教授は分析し「退屈な日」と言う東海林さだお氏の一文を取り上げている。「灰皿と煙草を持ち出して、縁側に出る。

 

腹這いになって煙草を一服吸う。なにかすることがあるような気もするが、さて、むっくりと起き上がってみると、何もすることがない。

 

〈中略〉ノソノソと部屋に戻り、机の引き出しをあける。爪切りがある。

 

手と足の爪を、きれいに切り、ゴシゴシとやすりで研ぎ上げ,また一服・・・・・・」斎藤教授はまだ東海林文章を列挙していくが、この

 

ような瑣末な行為を延々と二人は書き綴る性癖があると分析している。ここから読む側に笑いが生まれるとしたらそれは嘲笑か?

 

憫笑か?冷笑か?昔々初代林家三平師匠のアコーディオン小噺は子供ながらテレビで見ていて苦笑以外の何物でもなかった。二

 

人に共通する腹の底から来る笑いは

 

よく分からない謎の笑いかも知れん。いずれにしても稀有な作家を若くして亡くしてしまったのは残念なことだった。もう少し長生きし

 

ていたら太宰治は師と仰いでいた作家芥川龍之介の賞も獲得できる才能は十分あったと思うのだが・・・・。勿論笑文学ではなく純文

 

学としてだが残念ながら玉川上水に身を沈めてしまった。今日ブラタモリを見ていたら東京都民の命の水、玉川上水の歴史を語って

 

いた。この上流を思うたびに太宰治を思い出しては困るのである。彼はキリストのように日本人の悲しみを背負って水化した。それ

 

でいいのではないか。

 

とんでもない結びになって申し訳ない。斎藤教授の講演はまるで関西風の話術で立て板に水が流れるよう滑らかで心地よい響きだ

 

った。文学の『ブ』の字も知らないド素人が勝手にまくし立てて済まなかった。世迷言と思って勘弁してや!

 

太宰治15年の作家活動を前期・中期・後期に分けるとすれば

その代表的作品は前期「晩年」中期「走れメロス」後期「斜陽」「人間失格」に分けられよう。太宰の作品を読んで笑うことがあるとすれば、それは呵々大笑ではない、他の意味深な笑い方であるような気がする。