『伊勢参宮道中記』江戸時代上州版続々・・・

 

今月「上州の旅人は皆、健脚だった」と言う大泉町の商人の伊勢参宮記を書いたらケッコー好評だった。図書館へ行ったら不思議

 

に江戸後期の商人たちがグループで伊勢参宮して、日記を書き残しているのを子孫が貴重に思って、ある人は現代文に書き写し、

 

或る人はその祖先の辿った道を歩き通して旅行文としていたのを見つけた。

 

先ずは「伊勢参宮道中記」解・福島久米吉さん。

 

伊勢崎境上矢島の福島さんは160年前の古文書の道中記を10年かけて解読し自費出版した。

 

3つの大川を渡る悩み(富士川、大井川、天竜川)

 

それを9人旅立ちして川渡り・歩破(走破ではない)56136里歩いて、費用は約2両だった。この頃伊勢には現代の旅行代理店のよ

 

うな御師と言う存在がいて、全て要件、宿泊から伊勢参宮、神楽奉納の祈祷等々、一切合切面倒見てくれた。全国各地に「講」と言

 

うものが発達していて、伊勢参りは体さえ丈夫なら皆一生に一度達成できたのであった。

 

伊勢の御師は江戸後期700人はいて、全国の檀家419万戸(1777

 

をしっかり掌握していた。因みに聖と俗、伊勢参りが終われば遊郭の観音開きが待っていた。こちらの方も2000人の遊女が上客を

 

待ち構えていたのである。

画像>

 

もう一冊は沼田の磯田屋清七が安政4年商店街の9人で出かけた

 

伊勢参宮道中控である。こちらの子孫湯浅氏は先祖の人の道中を忠実に歩いて、同時旅日記を綴っている。自分が歩いた道中記

 

に祖先が世話になった伊勢御師の記録なども織り交ぜて3冊分。それを一括して箱に入れての出版である。さぞや先祖も草葉の陰

 

で喜んでいることだろう。湯浅氏の編集はもう完全にプロライタールポルタージュで、余りに膨大過ぎて読むのが辛い。然し今後の後

 

人の研究には貴重な資料であろう。県・図でわざわざ借りて来たものの記録が微細すぎて、余り読み進まなかった。然し返却日が近

 

づいて来たので尻に鞭打って少々目に入れた。正月18日真冬の寒風の中出発したのは、沼田が雪に閉ざされて商いに支障がない

 

から、このシーズンを選んで伊勢参宮を目指した。御師は伊勢・丸岡氏の世話になった。

 

2/6二見ヶ浦から内宮に着く。

 

2/7天照皇大神宮御参り2/8金剛証寺前の店で万金丹を購入(土産)

 

2/9外宮へ向かう。後半虫食いで判読不能部分も多くなるが、意図的か奈良大和国へ入った所で記録がなくなる。伊勢参宮を果た

 

したので書かなかったのか、書いては来たが保存中破棄したのか、聖から俗への移行で余り家人や子孫へ伝えるべき内容ではな

 

いと判断したかは不明である。だから何日間かかり何里歩き通しいつ沼田へ舞い戻ったか分からない。まだ探せば上州から発して

 

伊勢参宮した祖先の日記は土蔵の奥深く埃にまみれて眠っていることだろう。

画像> 資料:絵図に見る伊勢参り 河出書房新書

 

御師の活躍でパッケージ・ツアともなっている伊勢参宮+遊郭に信仰と物見遊山を男だけの楽しみにしてなるかと女性陣も参画して

 

来る。前回書いた「昔の旅」でも孫の良之助は母親を連れだって伊勢参りした。江戸後期ともなると商家は金がだぶつき、その女房

 

40代を越えて、倅に嫁が来て時間を持て余す余裕が出て来る。

 

しかも18世紀の日本は世界でも指折りの識字率の高さを誇り、何事にも好奇心は膨れ上がるばかりである。伊勢参りは大部分は男

 

の物見遊山の旅に見えるけれど、現代人が思う予想以上に女性もケッコー伊勢参りに参加していた。江戸住まいの中村いと〈商家

 

の女房〉が書いた「伊勢詣り日記」によれば内宮や外宮の御参りの他に御師のもてなしで、朝熊山,天の岩戸、二見ヶ浦の他に当時

 

内宮と外宮の間にあった古市と言う遊郭にも馳せ参じている。当時伊勢遊郭は男の遊興地と言う他に大舞台で伊勢音頭を皆で楽し

 

む余興があった。

 

土産は出来るだけ軽い物をの原則にのっとり、薬の万金丹と共に

 

伊勢音頭の踊りを憶えて帰る、旅の楽しみが女性に受けて、口コミで伝わっていたようだ。伊勢は津でもつ 津は伊勢でもつ

 

民謡で歌われるように女性も日頃のストレス、うっ憤を伊勢参りの名を借りて晴らしていたのである。現代人の我々が思う以上に江

 

戸時代の女性はそう虐げられてばかりはいなかったと思うよ。