わが青春は敷島公園の松籟と共に

 

 

敷島公園の松林を独り歩きすると心が落ち着く。パイン・ウッド効果かね。

 

私は前橋公園の近くで幼少期を過ごしたが、敷島公園にも自転車で遊びに来た。

 

昭和の昔とは様相は可成り変わってしまったが、100年以上3000本聳え立つ赤松・黒松の雄大さは昔のままだ。

 

冬に来れば人影もなく松風の唸りがウォ~ウォ~と最高潮に聞ける。

 

晩夏蝉は余り松にとまらず、烏だけの天下で朝から晩までカァ~カァ~がなり立てている。

 

池の手漕ぎボートは相変わらず健在で、学生の頃好きな人と乗った思い出がある。

 

あの人は今も健康であろうか?敷島公園にたまに来るとその人の家は公園の近くなので、思いがけない奇跡が‥‥なんて妄想が去来する。

 

でも合わない現実の方がベストで、

 

昔の面影を目にほのぼの焼き付けておく方が幸せかもしれない。

 

多分綺麗なお婆さんになっていることだろう。

 

上記マップには陸上競技場が記載されていないが、移転したのかな?

 

中学の頃の運動会はここであり、私は小学生1~6年まで徒歩競争で一番

 

しか取ったことがなかった。然し100m走で一緒に走って負けたことがなかった

 

学友のK君に大差で負けて二位になった。スタンドで見ていた初恋の上級生Hが

 

「〇×君、足が速いんだね!」とわざわざスタンドから下りて来て声をかけてくれた。

 

2位なんかで足が速いわけがないと私は憮然と唇を嚙み締めた。

 

翌年根性なしの私はK君と戦う100mを回避して走り幅跳びに変更して優勝した。

 

結局K君は3年間100m走にエントリーし続け、負けなしの3連勝を飾った。

 

今思えば小学校の徒歩競争は1周約100m,中学校の100m走はグランドで直線。

 

円周の走行は内側を早く取ったほうが勝ちと言う原則に私は忠実だったからK君に6年間は勝てたと分析している。K君もいい御爺さんになっ

 

ていることだろう。

画像>林間学校発祥の地 敷島公園は詩人の碑も幾つかあるが、こういう碑もあった。

   大正10年から昭和19年まで虚弱児体質向上のため、この地で訓練を行った。

   我々が小学生の頃は赤城山で一泊の林間学校があった。後に新潟の方で臨海学校に変わったらしい。

画像>松林3000本由来。赤松、黒松の比率は黒松が多いようである。河川水害で植林対策の一環として黒松を1910年に植えた。船津伝次平はこの事業に深くかかわった。松林の植林は利根川から水害を防止する為である。船津は他にも養蚕、農業全般のリーダーとして

日本三老農の一人に数えられている。

画像)松林参照 敷島の松林は100年松である。H19には小さな松ぼっくりからタネを取り、松を絶やさないように育成の取り組みをしている。黒松が県木になっている都市は海あり県に多く、海なし県で松が県木とは群馬だけであるらしい。

画像>水道タンクが遠方に見える。〇印がそうである。見える?

画像)水道タンク 中学の同級生がこの地から通学していた。成績のよろしい女学生だった。

英語教師がこの娘にロリコン病で、見ていて見苦しかったな。教師になる人って、ホントロリコン多いね。

画像>土俵 いつからあるのか知らない。私が子供の時代にはなかった。昔は前橋でも相撲巡業が来たけれどね。栃若時代の軽量相撲が良かった。現在は重量力士ばかりで数秒で取り組みが終わるから感動が少ない。。

画像)野球場 野球児だったのでここで一試合だけ登板して一勝している。(公式戦は1戦だけ)以後肩痛で退部。

その試合両親が観戦していたが、心臓に悪いと試合途中退席。2年秋自グランドで初登板した時、親父の友人がグループで応援に来てくれた。なのに覇気なく敗北した。その時悔しいと心底思わない位だから、スポーツに向いてない性格だったと思う。早く気付けば人生は変わったと後々思ったもんだな。

画像≫バラ園入り口 オフシーズンでも10月開園に向けて職員が沢山準備していた。

画像≫ローズガーデンファミリー 薔薇作りは農業と同じ,非常に手がかかると造園の人が言っていた。

画像≫北緯36度24分、東経139度3分の位置に薔薇園がある。

 

画像≫ダイアナ・プリンセス・オブ・ウェールズ。今尚慕われる王妃。グレース・ケリーモナコ妃の薔薇もあった。王妃は悲運である。

画像≫ミチコ  いくつかの種類が同名だった❓マサコは見えなかった。

 

わが青春は遠くにありて思うもの。

     そして悲しく嘆くもの。

        わが青春に悔いはないが

           想い留めて杭を刺す