アメリカ本土を爆撃した男 2発目!
貧乏人は麦を食えと発言した昭和37年の池田内閣の時、藤田信雄さん宅に一本の電話が入った。送信元は時の官房長官「アー、
ウー」鈍牛と異名を取った大平正芳だった。赤坂の料亭でお話があると・・。
不吉な予感。藤田さんはアメリカ本土に始めて爆撃を行った勇士だが、日本人さえも知らなかった戦績だから、まさかアメリカ政府
に知られているわけがないと思っていた。大平氏は料亭で藤田さんにこう言った。「我が政府は行くならば、何の責任も保障も出来
ない」
やがて藤田さんの元へオレゴン州ブルッキングス市(人口4000人)
より招待状が届いた。然し藤田さんは行くのを渋った。仇を取られる・・・・。それを宥め透かし「アメリカ人は危害を加えないだろう。
騙されたと思って招待を受けなさい」と薦めてくれたのがタイム誌の記者、生涯の友になったエス・チャングだった。
昭和37年5月23日藤田さん一家はパン・アメリカン航空でブルッキングス市へ到着した。傍らには愛刀の「豊後高田在銘」を持って、
場合によっては腹を切る覚悟で持ち込んだのである。然し到着すればアッケラかん?アメリカ人群衆の大歓迎を受けた。ちっぽけな
偵察機で2度にも渡って爆撃を敢行し、人命に及ぼす影響もなく、本国へ帰還した勇者に市民は絶賛の拍手を惜しみなく送った。
気を良くした藤田さんはオープンカーに揺られ、普段は多くを語らない元将校だったが、長口舌のスピーチ迄した。心が高揚してい
たのである。そのスピーチ内容は泣かせるメッセージであった。
参加したブルッキングス市民は皆スタンディング・オベレーションして日本の心を受け取った。勿論その時自らを刺すかもしれないと
思った愛刀は当市に記念として寄贈したことは言うまでもない。
画像・新聞>
―――話はこれで終わりかと思えばそうじゃない。
この20年先になるレーガン大統領(40代目〉の話が出てこない。
何故レーガン大統領の所へこの話が行き、彼はアクションを取ったのか?つまり感謝のメッセージを送り、この日掲揚されたアメリカ
国旗を藤田氏にプレゼントしたのか?
非常に難解なパズルを頭髪かき乱して解いている感じは否めない。
話はドンドン人道主義の方向へ邁進する。日本は高度成長期を迎え、生活水準は増してきた。1985年(昭和60年)つくば科学万博
(EXPO85)が開かれた。その時藤田さんは茨城で仕事をしていた。いつかブルッキングス市の人々を招待して、御礼がしたいと貯金
をしていた。
そこで思い浮かんだのがつくば万博に高校生3人ほど実費で招待する案だった(予算は約100万円)そこで招待された彼らが持って
来たビッグサプライズが時の大統領レーガンの粋な計らいだったのである。原文のまま記すとこう書かれていた。
―――藤田信雄元海軍中尉殿 貴殿の厚意と惜しみない友情に
アメリカ国民を代表して感謝の意を捧げます。更に私は、貴殿の立派で、また勇敢な行為を讃え、ホワイトハウスに掲揚されていた
合衆国国旗を贈ります・・・・ロナルド・レーガン」
画像samurai in the Oregon sky>
今この話はアメリカでドキュメンタリー映画になっている。過去に日本の風船爆弾を矢張りドキュメンリー映画にした女性映画監督イ
ラナ氏が5年越しで撮影したと言う。日本で上映されるか分からないが
多くの日本人に知って欲しい戦争逸話である。両国の忌まわしい過去は恩讐の彼方に…終わりよければ全て良し。―――話しはも
う少し違うが群馬県太田市でもやや似た戦争逸話を聞いたことがある。太田市を爆撃に来た飛行機が撃ち落された。一人は死亡も
う一人はパラシュートで脱出。その時太田市民はこのアメリカ傷病兵を手厚く看護。鬼畜米英皆で寄ってたかって憎き赤面袋叩きで
はなかったと聞く。終戦となり本国へ帰ったこの飛行機乗りは家族にこの話を伝えていたようである。
平成になってその遺族が感謝に太田市を訪れたと言うのだ。詳しい話は分からないが昭和20年2月16日に米機が一台撃ち落されて
いる記事は掲載されている。今群馬は緊急事態宣言、図書館で残念ながら調べられない。


