寺内タケシ大明神大腸がん克服から永眠
エレキの神様寺内タケシ氏は20年前大腸に悪性ポリープが発見され、切除して以降元気に演奏活動しておられた。
『断腸の思い』と言う本を読むと長くエレキを弾くため、健康に留意して食生活を改善したことが綴られている。
酒は学生時代辞めて以降一滴も喉を通さず。(学生時代空手部30人とヤクザ100人の大激闘をやらかして断酒宣言)色々病気や食
物の本を読んで研究の末、
肉食を止めて野菜中心摂取を始める。水道水もマイナスイオン化して、ギターが以前よりいい音が出せるようになったと書いてい
る。
我の強い人は意外や洗脳され易く、単純に五体が美完成されていると説く。それは失礼か?よく独裁者にあるタイプかもね。
画像カルビー➡病巣>
ここでは寺内タケシ氏の健康チェックではなく、前回UPの続きで「テケテケ伝」に記されていた芸能界交友録について触れる。
まず親に勘当されて演奏で自立していくタケシに接近してきたのが、ウエスタン・カーニバルの人気シンガーミッキー・カーチスだっ
た。
ミッキーは『ホンシュウ・カウボーイス』で活躍するテリー・ボーイのぶっ飛ぶ演奏に魅かれて、アメリカ人だと思って近寄って来た。そ
したらそれは日本人で寺内タケシだった。ミッキーはロカビリーバンドの「クレイジー・カウボーイズ」のボーカルだった。音楽好きの
二人は話が噛みあい、ミッキーのバンドに入った。そしたら長い間友情を結んだ下唇の「いかりや長介」がいた。以後8歳上のいかり
やとウマが合い、72歳でいかりやが亡くなるまで交友は続いた。でもいかりやはあの風貌だから、ロカビリーよりウエスタンの方がい
いんじゃない?
と「マウンテン・プレイボーイズ」のリーダー・ジミー時田を紹介した。以後長さんはそこでベースをやり、タケシも一時期加わるが、や
がてブルージーンズを結成し、エレキを奏でるようになる。アメリカ軍人から100ドルで手に入れた幻の名器「フェンダーのテレキャス
ター」をビンビンに爪弾んであ~る。
―――これからはメモ風に書面に登場するミュージシャン名を綴っていく。
先ずは川地民夫と城卓也。前者は後に日活俳優で石原裕次郎なんかと共演した。後者は「骨まで愛して♪」の歌を大ヒットさせた歌
手。
この二人はタケシ出身の関東学院大学でウエスタンバンドを作る為、募集したら集まった仲間だった。寺内タケシとブルージーンズ
を結成したら現れたギター奏者が慶大生加瀬邦彦。後のワイルドワンズのリーダーである。〈想い出の渚は名曲〉バンド名は加瀬の
大学先輩・加山雄三に作って貰ったが、ブルージーンズ名はタケシが発作的に思いついたと言う。皆青いジーパンを履いていたか
ら、そう命名したと語っている。
所属が渡辺プロになると、その時の条件で二人の問題児を上手く調教してくれとマネージャーに頼まれる。その一人がロッカー・内
田裕也。在籍中暴れん坊裕也はタケシと一度も張り合ったことがなかったと言われる。トランぺッターの日野皓正も駆け出しの頃で
プロダクションとしては売り出しを狙っていた。そこでブルージーンズへ入れて売り込みを考える。タケシはバンドにペットはいらない
方針だったが、あの日野の吹きっぷりを見たら、一時でも協力してやるかと言う気になったらしい。大男安岡力也のエピソードは面
白い。
ブルージンズのファンで矢鱈と生演奏を邪魔するけたたましい輩がいた。溜まりかけたタケシが「五月蝿い!静かに聞け!」と怒鳴
りつけると「何を~!」反撃してきた。そしたら客席にいたタケシファンの安岡力也が「タケシさんに何をする」そいつらをぶん殴り始
めた。そこにタケシも喧嘩好きの内田裕也も入り混じって大混乱になったと言う事件。野球界も昔はビンボールを巡って両軍相塗れ
てグラウンドで大乱闘があったものだが、今は選手がおとなしくて喧嘩などありえないソフトムードが漂うゲーム進行。
そして空前のエレキギターブームの後(ベンチャーズ中心)、グループサウンズの時代に突入した。このグループサウンズと言う命名
も寺内タケシと言われる。或る日雑誌記者にこのようなグループの音楽活動は何と言ったらいいでしょう?と質問されたタケシは咄
嗟にグループで演奏しているんだから「グループサウンズ」でいいんじゃない。ゴールデンカップスのグループ名もタケシが考えた。
横浜本牧町に溜まり場として「ゴールデンカップ」と言うお店があった。そこの常連がタケシで売り文句として、皆ハーフと言うことにす
ればいいんじゃない。メンバーはハーフでも無くて皆日本人だったとさ。
「オックス」売り込みを渡辺美佐さんに相談された寺内タケシは「さくら」に何人か失神させてマスコミを騒がせてはどうかと発案した。
先ず赤松愛が失神して、客が続いて失神する。それが予想外に多くて社会問題になった。皆見栄で失神装う女子が多発した騒動に
なった。タケシは売り出しアイデアに豊富な頭脳を持っていたが、罪もあれば罰もあった。デモ話術が得意だから話半分、ハッタリも
注意して聞かないと????は頭に広がる。スパイダースの田辺昭知、ブルーコメッツの井上忠夫の相談も受けた。当時まだ発足
したばかりのジャニーズプロ・ジャニー喜多川もその一人である。堀威夫(ホリプロ)や相沢秀禎(サンミュージック)両社長もバンドマ
ンでタケシの助言を受けた時代があった。このように寺内タケシを論ずることは昭和の芸能界を論ずことでもある。最後に日本に来
日した著名ミュージシャンのことを綴ってOFFとしたい。彼は寺内タケシ氏の楽屋をウロウロ。手にタケシの「運命」のレコードを持っ
ている。タケシを見つけるとレコードジャケットにサインを求めて来た。どこかで見たことがあるなと思ったら日本に来日公演で来てい
た「カルロス・サンタナ」であった。外国ミュージシャンでもタケシの「運命」は中々コピーできない別格の傑作なんである。
画像スキャン➡テケテケ伝より引用>
動画>ここに偉大なギターリストの功績を讃えて、永眠の無念を惜しまない。安らかに。寺内タケシの演奏美を忘れないために記録を記す。有難う!あなたは面白く、楽しいミュージシャンだった!
多くのバンド仲間に大明神と崇められ、「全寺連」では寺内タケシの家の方向に向かって夜寝る時、朝起きた時、手を合わせて挨拶するのが習わしだった。それ位多くのミュージシャン信仰の対象だったタケシ氏が亡くなられた。残念でならない。これ位の追悼文で勘弁して貰おう。寺内タケシのギター弾きよ、永遠なれ!


