『前橋城の大手門』発掘調査・講演

 

今、群馬県立歴史博物館では「前橋藩松平家の耀き」が開催されている。23日位迄コロナ禍で閉館していたが、解除されて講演会

 

開催と同時にテーマ展示も再開された。展示の模様は後日UPすることにして、今日は文化財保護課・小島純一氏の大手門発掘参

 

加の手柄講演を聞くことにしよう。

 

 

大手門の石垣や屋根瓦等は昔々郵便局本局のあった所、R17とR50クロスする交差点で土地開発で掘

 

ったら、出て来た~。古い前橋城のマップに描かれた位置に大手門は建っていたのを立証した。酒井家が統治していた頃の前橋城の

 

大手門である。前橋城に酒井家9代、引き継いで姫路城から転封した松平家が8代、前橋城のお殿様で過ごされた。

 

やがて前橋城は城下町の大火で燃えたり、西側に流れる利根川の洪水で流されたりして、松平家は川越のお城に移転して行った。

 

長い年月幕府に洪水の被害で城は壊滅的、修繕してくれ、立ち退きたい許可を再三嘆願していた。小島氏の作成した逆年表に寄れ

 

 

明和6年〈1769〉やっと前橋城三重櫓、大手門など取り壊し始めるとある。この時濠に壊した大手門の屋根瓦や石垣を埋めた。

 

それが今年2月掘り起こしてたら亡霊のように浮き出て来たものである。埋めたものは必ず甦る?人骨も化石になって世に戻る?そ

 

の時出土されたものは粕川歴史資料館に展示されている模様。私も機会あったらここを訪れたい。膳城の跡地に出来た施設のよう

 

で昨年偶然見つけて入った。城跡を見るだけの時間の余裕がなくてオサラバしたが、是非再訪しよう。

 

小島氏が今日手渡したレジメはA3―7枚両面ビッシリ前橋城に関する年表(近代初めから中世後半まで)と称して大正15年〈1976

 

~文明7年〈1475〉長野左衛門尉景信、厩橋城を築く迄逆年表で書かれている。私等子供の時代、よく城跡土手で遊んだが、県庁そ

 

ばの土塁は厩橋城があった所で、前橋城とは一言も教わったことはなかった。うまやばしじょうと呼んで「まやばやしじょう」と読むな

 

んて最近知った。小島氏の年表に寄れば宝永4年〈1704〉忠挙の時「まやばやし城」を公式に「前橋城」に改めると言う記録があるそ

 

うな。

 

後、陣屋となった前橋に再びお城を築城して川越から松平氏を呼び戻した時、前橋城と呼ぶようになったのでないことは分かった。

 

養蚕等で前橋は大分潤って来たから,商人を中心に松平氏を呼び戻そう運動みたいな機運があったように思われがちだが(一般的

 

にそう言われていた)今日の小島講師の推察に寄れば、幕末動乱期江戸に近い川越にいるより、北関東へ逃れた方が身は安全。

 

早く前橋城を再築するよう家臣が働きかけていたと言う話もある。太平元禄時代も長くなって時の為政者は皆、命永らえて悠々左団

 

扇で暮らす生活にどっぷり嵌った余生を送っていたのである。江戸末期の安穏平和が長くなると為政者の精神は腐る。我が身の安

 

全だけが人生の目的に代わる。古来から衣食住満たされると人は腐敗・堕落を繰り返す、現代の国民困惑した時でも為政者の言動

 

を見れば自明の理であろう。