キックボクサー沢村忠「真空飛び膝蹴り」

 

先々日UPした作家・三島由紀夫氏は若い時勉強ばかしする

 

頭でっかちだったが、或る時何かが切っ掛けで不得手な運動をするようになった。ボディビル・剣道そしてキック・ボクシング‥‥

 

のスポーツは’70年代いきなり沢村忠と言うスーパースターが登場し、

 

テレビのゴールデンタイムで高視聴率を記録した。所が私はこの頃、家から離れて上京、一人暮らしだった為余りテレビを見る機会

 

がなかった。4畳半一間にあるのは机とテレビだったが‥‥(炊事場、トイレ共同、風呂なし、コインランドリーまだなかった)これで原

 

宿一カ月の家賃一万円仕送り生活費一万円でやって行けた。

 

野球中継は欠かさなかったがキックボクシングにそう言う派手な必殺技のボクサーがいたとはリアルタイムで気付かなかった。それ

 

に元々ボクシングをそれ程熱狂的に観戦したことはなかった。父親の影響で小さい時から力道山やG-馬場、A猪木に熱狂したが、

 

ボクシングはタイトル戦でもラッシュの凄まじい打ち合いでもケッコー冷静に見ている少年だった。小学生で眼鏡〈近視〉を使用し始

 

めたので,喧嘩はハンディがあり過ぎてケッコー遠回しに避けた。私の同年では喧嘩が強くなりたくてシャドーボクシングする輩はい

 

るにはいたが・・・。

 

 

今沢村忠と言う10年余り長きに亘ってずっとヒーローであり続けた自伝風な読み物を読んでいる。キックボクシングが日本発祥と言

 

うのも不思議なのだが、日本大学芸術学部で空手をやっていて、将来映画の裏方仕事希望、そして役者にも色気を持つ現役バリバ

 

リの学生がエースに抜擢されたのも、時代を反映していると思った。この頃ボーリングでもゴルフでもテニスでもいきなりシンデレラ

 

のように一晩経ったらスターが輩出した時代だった。本名白羽秀樹ことリング名「沢村忠」は学生空手で60戦無敗、桁外れな運動能

 

力と武士のような面構えが大人気で日本にキックボクシングの曙を開眼させた。

 

五百年の歴史を持つタイ・ムエタイのボクサー相手に連戦連勝を積み重ね230勝余り、体を酷使満身創痍で戦い続けた。

 

                             

 

沢村忠は今まで功成り名を遂げたアスリートとはちょっと毛色が違っていた。孤高でキックボクシングの首脳部として残らず、慰留さ

 

れても頑なに拒んだ。金銭にも執着せず、金に困った後輩には分け与え、様々な福祉施設に寄付することが多かった。タイガ―マス

 

クの主人公そのものだった。体がぼろぼろになっても現役を中々退かなかったのは、沢村が偉大過ぎて後続のボクサーが育たなか

 

ったからである。それでもドクターストップをかけられ、もはや試合続行が不可能な病体(網膜剥離,脳波異変)になっていた。沢村

 

は突如行方をくらました。一年余誰にも行き先も告げず、世間から逸脱した。不心得なファンは沢村は死んだ?不世出のキックボク

 

サーは打たれ過ぎて不具な体になってしまった?その内キックボクシングも視聴率も下がり、沢村の存在も忘れかけて来た矢先、引

 

退宣言にリングに上がった。もはや33歳悔いなき引退だった。沢村は5歳で祖父から空手の手ほどきを受け、武道に生きる人として

 

の精神も鍛えられた。この辺がそこらのアスリートと考え方に相違があった.襤褸は着てても心の錦、無欲で芯の強い武闘家だっ

 

た。沢村忠のことを書くと五木ひろしに結びつく。二人のオーナーは同じ人で野口修といった。ボクシングジムを経営し同時に芸能プ

 

ロダクションの社長でもあった。沢村のキックボクシングで稼いだ金がそのまま五木ひろし「よこはまたそがれ」の宣伝費に活用さ

 

れた。歌が上手くても中々世に出れない五木ひろしもこの歌が駄目なら田舎に帰ろうと決めていたと嘗てテレビで語っていた。私は

 

五木ひろしのヒットは作詞家の銀座ママ山口洋子氏尽力するところと、勝手に思い込んでいたけど

 

もっと強力なバックアップが存在したことを本書で知った。だから五木ひろしの歌う時のポーズは、拳固を握って殴るポーズを繰り返

 

すんだと可笑しな納得が脳から全身に広がった。

 

画像五木(左)と沢村>  ボクサーのカシアス・クレイのことを

蝶のように舞い,蜂のように刺すと上手い比喩があった。私は生でもリアルタイムで真空飛び膝蹴りを見逃したが

差し詰め譬えれば鷲のように睨み,隼のように襲う、そんな誉め言葉でいいだろうか❓コミックで「キックの鬼」と言うのが

梶原一騎原案であったそうだが、そういうコミックもアニメも見逃した。私の青春時代は何をしていたんだろうか?