三島由紀夫
昨年は三島由紀夫が市ヶ谷の自衛隊駐屯地バルコニーに立ち、
檄を飛ばし自決して50周年の年だった。あの痛烈な死に様は
今も頭にこびりついて離れない。どこか芝居じみて何か自己陶酔の
極みのような言動だったとは言え、一命を賭して訴えたかったことは何か?人は生まれ,人は生き、人はやがて死に去るとはいえ、
自ら命を絶つことの意義。三島由紀夫の美学は只単にカッコよく死にたかっただけなんだ!と当時友人は言った。
三島の文学や生き方を見れば早く死にたくてウズウズしていた。
戦中同じ世代の若者が国の為天皇の為、死んで行った後追いを
’70年代になって遅ればせながら実行したにすぎんと左翼かぶれの友人も言った。確かにあの騒がしい’70年代、まず極左のよど号
乗っ取り(北朝鮮行きを指令)が昭和45年3月に起きた。あの時右翼は何もしないのか?と言われた。そうしたその年11月25日に三
島と楯の会4人がクーデターを起こしたと巷に広がった。そんな政治・社会不安のさなか、一連の連合赤軍事件が勃発。世の中は庶
民の為戦う革命と言うより、身の安全と仲間のリンチに明け暮れた山籠もり集団に大いに落胆の色を濃くした。以後憧憬の社会主
義思想を夢見る若者は現実に覚醒した。
それでもまだ学校では左翼系学生の残り火はボチボチ燃え残ってはいたが、消滅は時間の問題だった。あの頃三島の起こした事
件は或る種予想された時代背景にあった。日本人の価値観が掌を変えて四半世紀、混沌とした高度成長時代の中で、矢張り戦後
生き残った古式魂の人々にはやむにやまれぬ行動だったのだ。人は生き残り、死場を失った人にとって、大義を以て死ねる場所を
求めたに過ぎん。
作家・三島由紀夫のことは過去にもブログで書いた。然し死後50年という節目に三島のことを無視して書かない訳にいかなかった。
芸術新潮12月号は100ページ余を割いて、長-短編小説、戯曲、日記、エッセイ、評論、対談、インタビュー等々検証、特集号を出し
た。
私は三島が死んだ年、始めて三島の小説を読み、上野アメ横で日本刀を買った〈刃はない)若年の頃は夜ランニング、バットスイン
グを欠かさぬ日々だったが、そこに剣道部でもないのに竹刀素振りも加わる程、あの事件は衝撃的だった。
私は単純素朴な田舎人、即かぶれ易い人種だった。
芸術新潮特集号を読んで興味深く思ったのは、三島が死に赴く一週間前、最後のインタビューを受けた人のことだった。古林尚(た
かし)教授。
えっ?この名前は私の卒論(坂口安吾論)の指導教授と同姓同名?
講義は受けたことはなかったが、2度くらい面接で卒論指導を受けた古林教授?縁は奇なもの味なものの極致。今更教授と作家の
関係を知ってもな。
そんなサプライズを今時見ても半世紀過ぎた歳月が遥か彼方に霞む。三島由紀夫と古林さんは相反する思想を持ちながら、何かウ
マが合って議論することが多々あったと今号をナビゲートした平野啓一郎氏が解説している。ホント三島と言う作家は議論好きで嫌
われる相手に対して、余計接近するアブノーマルな性格だった。
164cm50kg小さな体を筋肉隆々理論武装して、コンプレックスを振り払うように虚勢張って生きた。然し残した業績と印象と記憶は私
には甚大でもう少し生きて、日本を日本人を批判し続けて行って欲しかった。偉大な御霊に謹んでお悔み申す。
画像笑顔>生前雑誌等に掲載される三島写真はことごとくしかめっ面だった。三島の意向だったと思う。然し50年経って掲載される
三島の写真は爽やかな笑顔が多い。その笑顔が実に純で屈託なく美しい。編集側もそれを分かっていて、大笑している三島を多数
載せている。



