黒鉄ヒロシ作「光秀公記」を読む,漫書週間
巷間流布している太田牛一著「信長公記」ではない。漫画家で歴史家
黒鉄ヒロシ氏が考えた架空の書。光秀の家来「藤田行政」が書いたら
こう書いただろう‥‥エンターティメント歴史書。でもそれはタイトルだけで中味は何故、光秀は信長を討ったのか?動機は?
何がトリガー(引き金)になったのか?結果は今迄の通説
信長ファミリーの領地の独占。それと引き換えに自分(光秀)の領地の取り上げ。四国勢とのメンツ丸つぶれ等々‥‥。思い切った
仮説は出てこない。金満放送局(余剰金が破格)の大河ドラマもとんでもない仮説でドラマは終了することなく、定説でストーリーは展
開していき、恙なく年末頃ジ・エンドになるだろう。然し謀反者の歴史なのでハッピーエンドでないのが残念。連歌・武芸・血統の良さ
(土岐家)
鉄砲術・孫子兵法をよく読み実践・築城術(坂本城)・茶の作法にも長けていた、戦国時代には珍しい才気溢れる光秀は戦績も凄
い!
足利義昭を三好三人衆の襲撃から守った本国寺、比叡山の焼き討ち、
浅井長政攻め、一向一揆平定、丹波攻め,紀伊雑賀攻め、松永久秀の信貴山城攻め、荒木村重の有岡城攻め、武田攻め
等々‥・・・。
連日の戦さ三昧が祟って過労で倒れた時期もあった。然し強靭な体で半年で回復。たった3年しか信長に仕えていないにも関わら
ず、異例の出世で京都奉行職迄任された。然し恋女房の煕子も亡くなり、人生の後期に一抹の不安を覚えた。天正の世は信長の
尽力で泰平になりつつあったが、我が身(光秀)の未来は暗澹たる漆黒の闇が広がって行くばかりだった。そんな折千載一遇・一陽
来復、ワンマン大名の信長が
油断大敵警固手薄で京都の本能寺にて茶会を催す。跡継ぎの信忠も含め、この世から抹殺してまえ‼てなことで世紀の歴史的大事
件「敵は本能寺にあり‼」が大願成就してしまったとさ。
画像・本>
明智光秀に関する文献は信長、秀吉、家康に比べれば、殊の外少ない。光秀を葬った秀吉がその多くの出自や資料を抹殺してしま
ったというのが定説である。日本に30年もいて戦国時代に詳しい宣教師フロイスでさえ、光秀のことは悪いことは書いても、良いこと
は「日本史」に記していない。時の権力者秀吉の目に止まったならば大量虐殺者に五体・五臓六腑粉々にされて鴨川の流れにされ
てしまう。その恐ろしさを身に沁みてフロイスは知っているから、光秀の長所など一筆とて書けなかったのだろうと思う。「光秀公記」
は
これと言って新説や珍説はなくて、期待したほど面白く読めた漫画ではなかった。しかしこう書くと尊敬する黒鉄ヒロシ氏(高知)やわ
ざわざ桐生図書館にて本を借りてくれて私に読ませてくれた友人にも申し訳ないので、同じ四国出身の広末涼子が昔々デビュー曲
で歌っていた♪とっても、とっても♪痛烈なフレーズが印象深く残っているダイ好き♪と言う曲のとってもとっても感動した部分を紹介
する。それは信長に仕えていた黒人サムライのこと。スペイン・イエズス会ヴァリニャーノが化れにゃいように譲ってくれた黒人奴隷
弥助のこと。名を与え蘭丸同様小姓とし、住む家まで与えた。
「光秀公記」とありながら、この弥助についての記述に可成りのページを割いている。この黒人サムライ弥助については来年あたり、
ハリウッド映画になる噂もあるし「信長と弥助」と言う本が出版されていることも知った。これを今後読んでBlogに書くということでここ
は打ち切り。最後におじゃるの勸修寺晴豊について綴りジ・エンドとしたい。光秀が坂本城へ逃避する時通った小栗栖村はマロの土
地。この広大な土地を通れば安心と進言したのは晴豊か?之を誰かが聴いて、又は晴豊が漏らして通り道に刺客が待ち伏せしてい
たかも?ヒロシ探偵の推理。そうでないと土民の竹槍で馬上にいて、鎧を貫いて絶命させるほど強力なインパクトは与えられないの
では……。晴信の日記はこの周辺、大量に書き換えが目立つのだそうだ。
壁に耳あり障子に目あり。壁に秀吉障子に官兵衛?
又その光秀の埋められていた首を掘り返して、わざわざ晒し首にし、その後頸と胴体を繋ぎ合わせて公開処刑迄演出した秀吉と言
う人格は如何なものか?最も確実に首は光秀という保証がないにもかかわらず、実施したのは武士の情け、死者への栄誉の証し。
晒し首と言うのは戦死した武士の作法なんだそうな。決して勝ち誇ったように見せしめで晒しているのではないと歴史家が言ってまし
たね。


