太陽にほえろ!ボス石原裕次郎を語る、岡田プロデューサー
太陽にほえろ!のショーケン、優作と来てお待ちかねボス・裕次郎。
不良な二人は1年しか在籍せず殉職したので、昔不良の警部補役とは殆ど台詞の絡みなし。尤も裕次郎の出演はチョイ出しに徹し
た。
結核療養後のテレビ初出演でもあるし、日活時代の派手なアクションは殆ど無理。岡田プロデューサーはあくまで「太陽にほえろ!」
を短期間で終わらせたくなかったので、俳優で権威ある人物をボスに設定したかった。それには逗子鎌倉出身の石原裕次郎しかな
いと判断した。例えば「ガードマン」の宇津井健、「キイハンター」や(Gメン75)の丹波哲郎。同じような役割として石原裕次郎が相応
しかった。しかし裕次郎の方は映画人だから,まだ新興勢力のテレビなど小馬鹿にしているし、本腰入れてやろうなどと言う気はな
かった。昭和30年代映画俳優として人気が出て来た時「俳優は男子一生の仕事にあらず」見たいな発言をしたらしいが、同じ考えが
テレビ初出演で頭をもたげたのかな。撮影初日テレビの現場をみて『ちゃっち~な‼』と一言。ワンクール13本取ったら円満別離ね、
を考えていた。そうされては困る岡田プロデューサー、制作側はボスが簡単に変わったのでは今後の番組継続もない。岡田プロデュ
ーサー、東宝プロデューサー、それに飲むのが好きなゴリさんこと竜雷太を連れて、成城の石原邸迄説得にはせ参じた。アルコール
鯨飲の裕次郎に対して、岡田は下戸、東宝プロデューサーも酒は強くない、唯一の頼みが飲み助の竜雷太。それが酒が回って「テ
レビを馬鹿にしないでください!」の直談判が裕次郎の胸に刺さった。まき子夫人も三人の応援に加算してくれて、裕次郎の出演延
長が決まった。太陽にほえろ!は14年間も続いた長寿番組に成ったから、病持ちの裕次郎も大変だった.或る時は病院から直行で
出演してくれた時もある。ハワイで療養している時、あちらでロケした時もあった。脚本家の腕の見せ所であったろう。昭和56年解離
性大動脈瘤の手術を6時間した時も不死鳥の如く復帰して出演した。昭和61年肝内胆管炎で療養に入った時は戦友でもあり、家臣
の渡哲也が来て「もう出演は無理」と言われた。それでも最後の一回だけ健康が戻った時、出演して貰える承諾を得た。渡本人が裕
次郎の代役で一度だけ出演してくれたこともあった。渡は裕次郎の懐刀として献身的に務めた。裕次郎最後の一回だけ出演の為に
ずっと空白になっているボスの席を奈良岡朋子さんで補った時もあった。商業演劇民芸で忙しいはずの奈良岡さんは裕次郎の為な
らと人肌脱いでくれた。皆が皆裕次郎の最後の太陽にほえろ!に向かっていい意味遠吠えした!
そして太陽にほえろ!最終回(1986)裕次郎は五臓六腑振り絞って出演した。長い自分の身体に関するアドリブも織り交ぜ、証人を
諭すように慈愛に満ちた目で台詞を語った。この時の映像を今見ても岡田プロデューサーは涙ぐむと言う。亡くなる5カ月前に吹き込
んだと言われる裕次郎感謝のメッセージには「また仕事一緒にしましょう!」太陽にほえろ!は俺の第二の青春だったと吹き込まれ
ていた。岡田プロデューサーの涙は止まらなかった。
KADOKAWAより引用した画像
昭和の名優と歌姫(ひばり)は同じ52歳で命の灯を断たれた。しかも平成前後の昭和とは奇せず一致。芸能と言う激務な仕事で体
の隅々まで蝕まれた。もうここまでで生きるのは限度、惜しまれての旅立ちだった。

