教育出版に反論!「朝鮮通信使が日本に文化を伝え、多くの影響を与えました」ですって? | funkaのブログ 

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怒れるおばさんたちは時々噴火します!

図書館に教科書コーナーがある。
それを何気なく見てみると…
ああ、
教育出版社の歴史教科書は
朝鮮史観のオンパレードだったぁ…。

これを見てごらんなさい!!


金属器は朝鮮から伝わりました!

稲作は中国や朝鮮半島から技術が伝来しました!

新羅からは律令制仏教文化が伝えられました!

渡来人先進文化を日本に伝えました!

桓武天皇のお母さんは渡来人でした!

朝鮮通信使が日本に文化を伝え、多くの影響を与えました!  

朝鮮人陶工が焼き物を作る技術を伝えました!
小学校28年度
 「…かれらを通して高い技術が日本に伝えられました。
  これ以後有田や萩など各地で焼き物の生産が始まり、
  現在まで受け継がれています。」
 写真 ≪有田焼の器≫ 「華やかな色彩が特徴です」

 中学の教科書28年度
「有田焼」朝鮮の陶工によってはじめられた磁器です。
このとき朝鮮から連れてこられた陶工や学者、
持ち去った書物などから、磁器や印刷の技術、
儒学が伝えられました。

…………………………………

《朝鮮陶工によって、
 有田焼が始まったのではないでしょっ!》

以前、出光美術館に「有田焼展」を見に行った時のこと。
  「戦国時代の有田の窯場」が地図で表示されていた。
  戦国時代にも有田焼の窯場があったことが分かる。
  なんと山奥に。100以上もの小さな窯場が。点々と。
  戦を避けて、陶工たちは、山奥に逃げていたのだ。
 
  やっと平和な時代が訪れ、
  陶工たちは、有田の町へと戻り、窯場を再開した。
  朝鮮の陶工たちは、その後、日本へ来て
  有田の窯場で日本人陶工や明の陶工たちから
  陶芸技術を学び、一人前の陶工に成長したのだ。
  李朝には「華やかな色彩」の陶磁器はない。
  日本人と明の陶工が作り出したものである。

funkaのブログより

柿右衛門の遺言「有田焼は、明末、明の陶工が…」

http://ameblo.jp/sakurajima-funka/entry-11557159595.html

あまりのウソのオンパレードに
頭がクラクラしてきました。

…………………

自国を貶める”ウソの歴史”を
子供たちに学校教育で教え続ける国なんて
世界広しと言えども
日本だけだと思います。
この状況を黙って見過ごすなんて
いくら、
左翼の市民運動の田舎のおばさんたちでも
できません!

では、
本日は、その中から一つ、
朝鮮通信使」の記述を取り上げたいと思います。
●●●●●●●●●●●●●●

  
教育出版社 小6社会(上)

   p70、「鎖国のもとでの交流」

……また、朝鮮通信使が日本を訪れ…江戸へ向かいました。

この交流を通して朝鮮や中国の文化が伝えられ

鎖国下の日本に多くの影響を与えました。

●●●●●●●●●●●●●●

うーーむ、

いったいどんな影響を与えたと言うのだろう?

  ※ちなみに韓国の中学歴史教科書には、
   「…日本の文化発展に貢献した」と書かれている。

まだ、古代(原始時代と言う学者も)だった李朝
封建制を経て近世(江戸時代)になり、まもなく
近代(明治・大正)
を迎えようとしていた日本
どんな文化を伝えたと言うのだろうか?

日本の古代は、平安時代。
紫式部、清少納言、和泉式部、道綱の母など女性たちが
長編小説、随筆、日記を書き残している。
「源氏物語」は、世界最古の女性長編小説だ。
では、朝鮮には何があったの?


貧しく商業さえ発達していなかった李朝
世界の大都市をいくつも抱えた日本
どんな影響を与えたと言うのだろう?


どう考えてもあり得ない事です。

………………………

 古代国家とは、

歴史通11月号2015年
-インカ帝国並み-古代に回帰する韓国
                    古田博司
……………………抜粋スタート

「……150年前までは、
中国も朝鮮も古代国家だった。
中世の封建時代を経ずに、
古代から直接近代に移った国々です。
韓国はそのことを認めませんが、
韓国に封建制なんかあったわけがない。
封建社会には各地方に領主がいましたが、
中国でも韓国でも王宮は一つだけ
地方の土地もすべて王土でした。
これが古代国家の大きな特徴です。

世界史では、
土地の所有権が発生するのは中世からで、
日本の場合で言えば
武士と貴族が土地争いをしたのが中世初期の姿です。
………
植民統治時代に、韓国は日本に収奪されたなどと、
とんでもないことを言いますが、
収奪できるものなど、半島には何一つなかった。
行ってみたら中世ではなく古代だったから、
古代社会を近代化させるため、逆にすべて日本の持ち出しです。
……………」
……………………抜粋終了

※古代→中世→近世→近代→現代のように発展した国は、
世界広しと言えども、西ヨーロッパと日本だけ。
中世、近世の封建時代があるから、
各地方に独自の文化が根付いているのだ。
韓国には、それがない。

…………………

朝鮮は、日韓併合時代、
日本の努力で古代から近代へと生まれ変わった。


李氏朝鮮は
   古代のように遅れた時代だった

商業は全く発達しなかった。

  
日本の明治初期にあたる李朝末期にさえ、
  日本やヨーロッパのような貨幣経済(紙幣・硬貨)がない為、
  たった10ポンド(100円分)の銭を運ぶのに
  6人の男か朝鮮馬1頭が必要だった。
  大きく重い穴あき銭!もちろん銀行も両替商もない。

              参考…イザベラ・バード「朝鮮紀行」
 

  木で輪を造る技術がない為
             樽も荷車も存在しなかった。  

  日本のように酒やしょうゆ・味噌などを入れる樽もない。
  それを載せて運ぶ荷車もない。
  朝鮮では、陶器で作った重い甕しかなく、
  それを運ぶ荷車もなかった。
  半島では、行商人が重い甕を背負って運んでいた。
  これでは、商業が発展する余地がない。
  日本の古代(平安時代)には、牛車があったが、
  李朝にはそれさえもなかった。 

李朝500年間、水車を作ることができなかった。

  水車は、動力。麦や米をついて粉にしたり、
  荒い粘土を砕いて粉にしたり、
  又、ポンプのように揚水して、
  高い所にある水田に川の水を引く事も出来る。
  李朝時代の水田稲作は、灌漑施設もなく、
  天水(雨)に頼るしかなく、それが為
  米の収穫量は、非常に少なかった。
  
道が整備されていなかった

  
道は整備されておらず、
  真ん中に大・小便の川が流れて狭くなっており、
  人と牛がすれ違うのがやっとという有様。
  また、
  荷を船に乗せて運ぶ為の川や海の通路もない。 

  商品を流通させる為の条件が整っていないので、
  商業の発展も、産業の育成もあり得なかった。
  ソウルの町でさえ、
  店はなく、商人は露店か行商で物を売っていた。
  19世紀末でさえ、こうだ。

……………………
しつこいようですが…
李朝は「古代」だった

その1、
「歴史通」11月号 
まるでインカ帝国並み
~古代に回帰する韓国~ 古田博司

詳しく知りたい方は、上記の本をお読みください。
簡単にまとめてみました。

=====
交易、商業は、民間にはやらせない。李朝の独占。
これで、李朝の支配階級は潤うが民衆は、貧困に喘ぐ。
首都ソウルにさえ、商店一つなく
あるのは、青空市場、露天商、行商だけだった。
明治時代初期でこの有様だ。

では、
彼らは必要な物を、どのようにして手に入れていたのか?
朝貢使節に200~300人の特権商人がついて行き、
宮中と官庁の為に
絹織物、筆、墨、ハサミ、刀、針などを買い付けてくる。
つまり、
自分たちでは針一本作れないのだ。
買い付けには、
対馬貿易で仕入れた日本の銀を使った。
ところが対馬貿易から長崎貿易に移って、
銀が朝鮮半島に入らなくなると、紅人参を持って行って、
北京の両替商で金に換えるようになる。

………………

対馬貿易は、朝鮮にとっては、
銀を仕入れる大事な貿易相手だったのだ。
日朝貿易の朝鮮側輸出品は、
”朝鮮人参”が圧倒的に多く、
政府高官たちは、それで随分稼いでいたらしい。
しかし、
徳川吉宗が、「朝鮮人参」の日本での栽培に成功。
朝鮮からの輸出は激減した。
それが李朝末の窮乏化の一因とも言われている。

印の文は、下の本を参考にしました。

「韓国の妄言」別宮暖朗  
(並木書房2006年11月発刊)

……………………

その2、

◆1890年代のソウルの町は…
イザベラ・バード著「朝鮮紀行」より

…………………抜粋スタート

「…北京を見るまで私はソウルこそ
 この世でいちばん不潔な町だと思っていた。
 (つまり、北京が一番不潔な町ということね 

 …都会であり、首都であるにしては、
そのお粗末さはじつに形容しがたい。
 礼節上2階建ての家は建てられず、
 したがって推定25万人の住民はおもに
 迷路のような横町の「地べた」で暮らしている
 路地の多くは荷物を積んだ牛同士がすれちがえず、
 荷牛と人間がかろうじてすれちがえる程度の幅しかなく、
 おまけにその幅は
 家々から出た個体および液体の汚物を受ける
 穴かみぞで狭められている。
 悪臭ふんぷんのその穴やみぞの横に好んで集まるのが、
 土埃にまみれた半裸の子どもたち、
 疥癬持ちでかすみ目の大きな犬で、
 犬は汚物の中で転げ回ったり、…

 路地には…
 けばけばしい色のあめを売る行商人もいて、
 溝の上に板をさし渡し、
 おそらく1ドル程度の品物を並べている」


…………………抜粋終了


ハメル「朝鮮幽囚記」より

1662年の飢饉の時には何千人もの人が餓死した。
街道は追いはぎの為に通行できなくなった。
それで、国王は旅行者の安全の為、警備を強化。
……………抜粋スタート

「…また毎日起こる殺人や強盗を防ぐためでした。
 いくつかの町や村が強奪され、国王の倉庫は
 破られて穀物が運び出されました。
 しかもその犯人は
 罪人としてとらえられることはありませんでした。
 というのは、それは大官の奴隷たちによって
 行われたからなのです。
 生き延びていた普通の人々の食料は、
 どんぐり、松の樹皮および野草でした」
 
……………………抜粋終了                


それでは、
本題に入ります。

次のような順番で、
朝鮮通信使が日本への「朝貢」であり、
当時の李朝は、日本に文化的影響を
与えられるような王朝ではなかったことを
明らかにしてみようと思います。

、「交流」ではなく、屈辱の「朝貢」だった

朝鮮には伝える文化はなかった。

彼らは、日本の大都市に圧倒され、
  羨み、妬みさえ感じていた。

長くなりましたので、
次回に続きます。


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