・・・理解とマスターの違い・・・


マスターといっても、カウンター越しにいる
お店のマスターではなく、
『自由にそのものを操れる』

・・・という意味でのマスター。


何度も何度も痛感していることなのですが
理解とマスターの間の距離は意外にあるということ。


特に算数ね。


授業では理解して
わかったつもりでいたのに
テストになるとできない。


先生と一緒だとすごく納得して
理解してるんだけど、
自分では説明できない。


頭では理解してるのに、
この指がこの腕が回答を書いてくれず
とまっちゃう。



だから、理解した後、
練習、修練、反復、復習をしないと、
結局は、テストでは正解できないんですよね。


そして、なんでなんだか、
この練習、修練、反復、復習というのは、

結構めんどくさい作業でもあったりして。


めんどくさいと思う気持ちすごくわかります。



でも、わたくし、それで失敗してるんです。 


中学生の時、

めんどくさいけど、もっともっと修練を積むべきだった。
手が勝手に動くくらい。体が覚えてしまうくらい。
頭文字を聞いたら続きが言えるくらい・・・。

修練を積むべきだった。



痛い思いをした今だから、はっきり言えます。


「理解とマスターは違う」


だから、簡単に、

「あ、聞いたことある。やったことある。わかってるつもり」

なんて言って侮るものではないと。



私は、日常生活でもそのことを
常に自分に言い聞かせて行動しています。


お料理もそうです。

包丁の使い方は理解している。

けれども、千切り一つとってみても、

やはり、修練を積まないと、

均一な美しい千切りはできるようにはなりません。

栄養学や料理の段取りなどもそう。

何度習っても、そこからさらに深い学びがあって、
たとえ同じことを教わっても
先生によって、その場の雰囲気によって
感じるものも違ってきます。



娘にもそれは伝えています。

「あ、これできる」と娘が言うので

「じゃあ、ママに説明してみてよ」

と言うと説明できない。

尽かさず、
「リサは、理解できてるけど、マスターはまだだね。修練が足りん!」

とね。


そろばんもそう。

ピアノもそう。

計算も、漢字も、お習字もそう。


何度も何度も修練、練習を重ねて
数字を読み上げられれば勝手に指がそろばんをはじくような・・・

楽譜をみなくても、手が勝手に動いて曲に仕上がっているような・・・



そこまで行くには相当の

練習、修練、反復、復習が必要だと思います。


果てしない道のりではあるけれど、

時にはめんどくさく、時にはしんどい作業ではあるけれど、
千里の道も一歩から。
理解でやめず、マスターできるまで、一歩一歩進んでいこう。




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