ウォッシュレットがないと生きていけない。気がする。


 ウォッシュレット。正確にはTOTO社の登録商標だそうですが、ここでは広く一般の温水洗浄便座という意味で。


 ウォッシュレットが当たり前に設置されていないからという一点で、海外旅行に行きたくない。ハワイ、いいよね。ロンドン、パリ、ニューヨーク、うーんオッシャレ!でも、ウォッシュレットを欠いてまでも行く価値のあるところなのかと、真剣に悩んでしまいます。


 考えてもみてください。


 泥が手についたら、皆さん紙でそれを拭っただけで、それがきちんと拭い去られたものと思えますか?紙が当たりきらなかったエリア、ある気がしませんか?当たっていた箇所だって、紙に押さえつけられて皮膚にすり込まれた感、ありませんか?わざわざ乾いた紙で拭うより、水道の水でじゃーっと手を洗う、それが素直な除去の仕方てえもんじゃありませんか?


 しかもお尻が毎日相手にするのは泥より手強いアイツです。皮膚にすり込む、ましてや拭き取りそびれるなんて言語道断。まるで水道で手を洗うが如く、お手洗いで手以外も洗える夢のシステム。それがある以上、使わない手はないでしょう。それを知ってしまった以上、それのない暮らしはもはや不可能というものでしょう。きっと。


 我が家には私が独身時代、1997年に導入したウォッシュレットがいまだ現役で活躍しています。もう15年、何のトラブルもなく、淡々と俺のおしりを洗い続けてくれている頼れる相棒。結婚に伴う引越しを経つつ、仕事部屋のある2階のトイレでおいらのシモのお世話をし続け15年、何のトラブルもない。なんということでしょう。日本の家電、ゴイスーです!日々、お手入れしながら心でつぶやくのです。「世話になるぜ」


 そんな我家の1階のトイレにも、ある日ウォッシュレットが導入されることになりました。


 同製品製造及び販売業界第二位の社に勤める同級生のKくん。ある年の中野サンプラザでのライブに彼のご家族を招待したところ、お礼にとフェラーリレッドの高級型落ちマシーンが、Kくん自らの設置により我が家へ来るという運びに。


 エビでタイ。


 型落ちとはいえ1997年製のそれとは比較にならない高性能。


 まず、便座が自動で開く。目の前に立っただけでウイーンと開くフェラーリレッド。それに慣れた我が家の子供達はよそでもしばし便座の前にぼーっと立ってしまう感じの悪い人間に育ってしまいました。


「あ、ここ、開いてくんないんだ。」


 いけません。


 それから、座ると音楽が流れるのです。曲は自分で自由に差し替えられるのですが、デフォルトは「G線上のアリア」。厳かな気持ちで用に立ち向かうことが出来るという寸法。なわけで、しばらくずっと同曲が厠のヘビロテに。


 ところが我が家の人間全員、街なかでふと「G線上のアリア」が流れると、そこがどこであろうと即座にトイレに座っている気分になってしまうという一種のパブロフ状態に陥ってしまったのです。このままでは、Gのロングトーンを聴くだけでもよおしてしまうカラダになりかねません。


 いけません。


 以上の点と節電の観点から、使用時以外はコンセントを抜く方針で今のところ過ごさせていただいております。


 それをやってしまったら新しい型の恩恵を受けられないではないか、そんな気もします。でも、違うのです。さすが日本の家電、日進月歩の凄まじさよ。


 洗浄時に使うお湯の量が旧型と比べて格段に少ない。洗浄効率が格段にアップしている。なおかつ、おしりにあたった時の感触の優しさ。どれほどの研究を重ねればこのタッチにたどり着くのか。気の遠くなるような研究者の開発魂に只々脱帽するばかり。


 しかしながら。


 個人的には旧型の、がさつなだばだば感が嫌いじゃないの。真夏の炎天下、さんざん遊んだ後に校庭脇の水道蛇口を天に向け、じゃばじゃば水を出してごくごく飲み、ついでに帽子を取って髪の毛までずぶ濡れにして涼んだあの、昭和の、がさつだけど爽快な無駄遣い。その感触が、旧型の水が描く弧には、あるの。だばだばどばどば。そこに仕事を終えたお菊さんを迎え入れ、「ごくろうさん」とばかりに洗い上げる。


 いい。


 ついつい2階で用を足しがちなあたし。


 節水の観点からは、いけませんけどね。


 


 ああ、早くウォッシュレットが世界のスタンダードにならないかな。