アルバム制作と野音の本番を終え、なんか気が抜けちゃってしばし呑み歩いておりました。やー、呑んだ。ま、それはいいとして。
有さん。先日、当ページ読者の若者に質問を受けました。曰く、
「あのー、長嶋…あり、さん?ゆ、あ、ゆうさん、ですか。あの、なにされてる…。」
ながしま・ゆうさん、小説家です。芥川賞、取ってます。歳は俺のちょい下ぐらい。確かに僕の知り合いで「有」と書いて「たもつ」と読む方がいます。一宮有。鎌倉のレジェンド・サーファー。現在種子島在住。主な収入はバイトと聞いております。そんな60前。ソウルサーファー一宮さん。んー、会いたいっす。
まだぼーっとしとるね。なんの話を…。
はい、有さん。読み仮名をちょいと迷われがちな名前ですよね、と。そんな話をわざわざしたいわけじゃないのよ。ね、それはいいとして。
物語にこっそり仕掛けを仕組む。これはなかなか愉しいものであります。
教育TV「ピタゴラスイッチ」にて佐藤雅彦さんより持ちかけられた仕掛け。それが“つながりうた”でありました。
“つながりうた”
すなわちなんぞやと。解説しましょう。
歌の節と節の間。楽譜上なら休符が打たれ、息を吸うポイントとなる箇所の前後二文字の音をそろえる。このルールを貫いた歌のことをして、“つながりうた”と呼ぼう、と。具体的に言いましょう。実際に番組で放送されている曲です。
~つながりうた・もりのおく~
森のおく くまのおやこ ことりのうた
たにまをわたり りすの巣穴 なかよし兄弟……
こんな調子でうたは続きます。で、それがなんなのかと。
休符の間、直前に発音した言葉を唇は覚えています。この「唇が」っつーのが大事なとこ。例えばそのセンテンスが「う」で終わり、休符に突入したとしましょう。唇はその間も多少とんがらかしたまんまではありませんか?そして、次のセンテンスが同じ「う」で始まると、とんがらかしたところから新しい運動が始まる。つまり、唇が色濃く記憶しているものを再び解き放ってあげる。これ、なんか、えらく気持ち良いのです。うれしくさえあるのです。休符の間に唇の態勢を次の発音のために準備しなおす必要がない。それどころか前のセンテンスの最後の文字が次につながる準備を兼ねているという連続性。その美しさに佐藤さんは気がつかれた。
そして、それが一曲というパッケージのなかで反復して起こったら、気持ちよさはいったいどーなってしまうのかと佐藤さんは提案された。いまさらですが、あのひと、天才です。
僕が感動したのは、歌詞とは歌って初めて機能するものなのだと改めて気づかせてくれたことでした。すなわち、歌ったとき聴いたとき、唇や耳は喜んでいるのか。魂に訴える言葉はもちろん大切です。だけど、歌詞という言葉が音楽とともにあらねばいけない理由は、フィジカルなところにあるのだと。
韻を踏む、という技術もそういった試みの一つで今やとてもポピュラーな手法となっていますが、“つながりうた”はその「即時性」及び「連続性」という特性から、効果の強さは踏韻の比ではありません。
更にその試みは、歌にユーモアやしゃれ心を添えてくれます。ユーモアは、ともすれば脂っこくなりすぎがちな“ほんとうに形にしたいこと”をやさしく包んでくれ、しかもパワーを増してくれる心強い道具。踏韻は駄洒落にも通じるおっさん的危うさを孕んだ手法ですが、“つながりうた”にはそれがないのも嬉しいオプション。僕はこのやり方で、自作のポップス曲に歌詞をつけてみることにしました。
それが「Dear,Summer Friend」。
一丁、注釈はさみつつ書き出してみます。
君とキスした「ら」 「ら」くしょうで世界「は」
「わ」らうほど変わっ「た」
「た」だの真夏は光の季節「に」
「に」じさえ見えそう「さ」 「さ」く花は太陽遠く西へ向か「う」
「う」みに抱かれて沈むん「だ」 「だ」から帰りたくない「よ」
「よ」く見せてくれよもっと知りたいんだ君のこと「を」
「お」となになれば夏は終わるか「な」
「な」くならない夏はないかな「な」
「な」がく暑い夜のドアを開け「て」
「て」さぐりのまま出かけよう
(ここでワンコーラス終了。その際“つながり”を切ったら肉体的にも途切れる感覚になるのではないかと、あえて“つながり”を切断。冒頭の発音に戻ってみました。)
君とキスした「ら」 「ら」くしょうで世界「は」
「わ」らうほど変わっ「た」
「た」りなかったものなどそのままでい「い」 「い」そぐ「よ」
「よ」こみちは無視し「た」
「た」めらった瞬間に夏は終わるか「も」
「も」とに戻るものなどないん「だ」
「だ」から帰したくない「よ」
「よ」く見せてくれよもっと近くにいたいんだ「君の」(ここで3文字の応用編登場。)
「君の」名前を呼びたくなるの「さ」
「さ」みしい気持ちを知るの「さ」
「さ」よなら夕陽は燃えながら沈「む」
「む」らさきに染まる雲「を」 「お」いこし「て」
「て」を「放さないで」「放さない『で』」
「『で』かけよう行こうよ」 「でかけよう行こう『よ』」
(ロングトーンなので唇的に覚えているかたちは「お」に。)
「お」となになれば夏は終わるか「な」
「な」くならない夏はないか「な」
「な」がく暑い夜のドアを開け「て」
「て」さぐりのまま出かけよう
(ここもロングトーン。すなわち唇的には「お」に。)
「お」わらない旅に出る「よ」
(ロングトーン。すなわちラスト一行は“つながりうた”的にはエンドレスに循環可能。)
とまあこんなカンジで。
この歌詞を書いていて更なる発見が2つありました。
ひとつめは、サビのブロックで「な」を異様にたくさん使ってみたこと。「な」という一文字の響きの気持ちよさを再発見。再発見とは、長江健二氏の往年のギャグ(於・「欽ちゃんの良い子悪い子普通の子」フツオより)を踏まえて、との意。
もうひとつは「2番」というものの意味について。
そもそも2番とはなぜあるのか。なくてはならないのか。
それはすなわち、もう一回聴きたいから。正確には、反復して確認したいから。そうくるとサビはもう一回ぐらい浴びたくなる。そんなふうにしてポップス楽曲の王道の骨組みは構成されています。
しかしながらそれは音楽上、すなわち耳や唇の要求に応じてそうなっておるわけで。歌詞、すなわち文章表現上そのような要求は特にないわけで。文章的には1番でいいのが書けたら、2番を求める魂の声は特に聞こえるわけでなく。
歌詞の制作において2番というものは音楽の要請にしかたなく文学が応じざるを得ない状況、ってのが通常の実情でありました。1番が書けて「よっしゃ!」と思ったら2番が待っていて、しかも2番は1番より出来が良くなくてはいけない…。うわぁあしんど!と。
ところが“つながりうた”。
ワンセンテンスずつ、次の文字が必然的に指定されている状況だと、スタート地点から次にどこへ向かうかを決めるサジ加減が100%俺に委ねられていないということになるのです。つまり、物語を動かす神を担当できないと。どちらかというと物語の神様に雇われたちーママ、それが俺であると。神様は“つながり”のルール順守を前提に物語を進行せよとミッションを課します。俺はそれに従うのみ。限られた道を選びながらなんとか進むのです。
そうなると、1番だ2番だでなく、1曲という単位で文章が綴られるということになる。最後の最後まで物語がどこに解き放たれるのか、自分でも分からない創作環境。これはエキサイティングでありました。
しかしなんといっても最大の特徴は、歌う張本人であるYo-King氏のこの言葉にこめられております。曰く、
「桜井、これ、覚えやすくていいわぁ。」と。それは、よかった…。や、覚えやすい、というのは気持ちが良い、ということ。歌は、気持ち良くなるためのもの。なによりじゃあないですか!
ポップミュージックの魔法のタネ。これはまだまだ発掘の余地あり、と秀俊、踏んでおりますよ。こういった秘密の種が隠されていると、作品ってまた違った味わい方ができるっしょ?ちなみに「I‘m in Love」という曲でもそういった、でもまた別の“仕掛け”を仕組んでいるのですが、あんまりネタばらしの自慢がすぎるのもなんなので、内緒にしておきます。でも、ほっといたら誰も何も言ってくんないのでついつい自分で大声出したくなってしまう…。秀俊、まだまだ青いぜ。悪い意味で。
なんにせよ有さん、新作、期待していますよ。かしこ。