締め切り間近。

 33個しか見つかりません。33個なんでしょ、実は。

 オザケンこと小沢健二さんの「LIFE」には、確かに“あのころ”を思い起こさせる力があるような気がします。昭和の歌謡曲が持っていたような。歌を思い出すとその頃の自分や自分を取り巻いていた世界の匂いが鼻をかすめる、そんな気分にさせる力。その意味で菊池桃子の「ラ・ムー」と小沢健二氏の「LIFE」は俺の中で同一線上に並んでいる。俺の中で並んで、それぞれが歌って、さすがに凄い画になっている。

 同アルバム中のキメの一曲、「ラブリー」がフルサイズで7分もの大作であることは、当時、カラオケボックスで思い知らされたものです。最初っから全開で歌うもんだからとてもじゃないが息もテンションももたんのです。毎度毎度「まだあんのかよお!お!ぉ!ぉ、ぉ」とディレイ音の残った捨て台詞とともにオケをフェイドアウトさせた‘90年代半ばの蜜月よ。みんな、元気か。続いて「今夜はブギーバック」を入力するのがあのころのセオリーだったね。みんな、どうしてる?

 実は一度、いつだったか私、ライブで「ラブリー」を歌ったことがございます。たしか東京スカパラダイスオーケストラの皆さんと競演させていただいた日比谷野音だったと記憶しておりますが。

 セッションコーナーでスカパラ真心一緒になんかやろうということになり、僕が冗談で「ラブリーどうすか!本物の演奏で(当時、小沢氏のレコーディング及びライブの殆どをスカパラさんが務められていた)歌いたいっす!」と、極めてテキトーに発言したらそれがそのまま通ってしまったと。スカパラさんサイドの言うには「練習しなくても出来るから、覚える手間が省け、楽でよい」とのこと。お客さんのことを考えてショウを実行せんとする人間が一人として現れることもないまま、気づけば野音の舞台上でイントロの「チャッチャッチャッ、チャッッチャ!」を弾いている俺。3小説目からかぶせてくる東京スカパラダイスオーケストラの皆さん。「おおお、本物だ!」と感動していたのもイントロの間だけ。歌のパートに突入した瞬間、私、自分が大変なミスを犯していたことに気づいたのであります。

 ついつい、歌マネをしてしまう。

 いや、ついついといいますか、もう、どうしたって、ご本人のマネをせずにマイクに向かうことなど不可能でありました。

 ひとつには、カラオケで同曲を熱唱する際には似ている似ていないは別として本人になりきって歌うのが、少なくともその場においてはスジであったこと。ふたつめは、そんな夜を当時、相当回数重ねていたため、同曲においてもはやそれ以外の歌唱スタイルを受け付けない体になってしまっていたこと。そして、あろうことかその日のバックトラックは下北のカラオケボックスで聴くしょぼいシンセの打ち込み音源などではなく、日比谷野外大音楽堂のステージど真ん中で聴く本物のバンドによる生演奏であったこと。

 この局面において僕の体が出した答えは、「紅白歌合戦のときの、あの常軌を逸したような歌いっぷり(『小説すばる』5月号233P、『ファットスプレッド』より)。これ以外に一体どんな答えがあるというのでしょうか?

 しかしながら、いくら俺の中で必然性があふれていようと、俺以外の人間から見れば、そこにいたのは常軌を逸した単なる俺。演奏が進行するにつれ積み重ねられてゆく“なんかバカにした”カンジ。「ちがう!そんなつもりじゃないんだ!俺、どうしたってこうなっちゃうんだって!」、そんな心の叫びをあざ笑うかのように、交代で歌うYo-King氏はいつものように100%自分の歌い方でなんなく歌いこなしておる。

 そしてとどめに、ここへきて最大の業と化した“7分”という長さ。

 リモコン操作ひとつでフェイドアウトできた下北の夜がこれほどまぶしく思えるとは。2番が終わってさあ3番。ここからは未知の領域。ふりかえればスカパラの皆さんはいつものように素晴らしい演奏を繰り広げておられる。煽られ、ますます常軌を逸していく俺。

 完奏後の客席のビミョーなリアクションは、僕の心のやらかい場所を今でもまだしめつけます(スガシカオさんより引用)。

 ずっと言えなかった一言を、この場を借りて。




あれは…俺が悪かった。