会話が下(しも)へ向かうと、心にブレーキがかかるこの頃なのです。

 鶴光のオールナイトニッポンが大好きだった中学時分からつい最近まで会話の50パーセント以上を下(しも)で満たさないと人様と十分なコミュニケーションが図れなかった、というのはさすがに言いすぎですが、奔放に品性下劣(鶴光師匠より引用)な言葉を会話の端々に盛り込んでいたあたし。それが40を目の前にした最近は、ノドに込み上げるエロ単語を反射的にぐっと飲み込んでしまうのです。どうしても。

 なんか、生々しく響いてしまう気がして。

 例えば“おっぱい”という言葉。

 十代や二十代のころに放つ“おっぱい”には、品性下劣のなかにも押さえきれない憧れが感じられます。ごつごつとした自分からは想像もつかない女性の体のやわらかさに対する渇望。ぬぐいきれない母性への望郷の念。ひいてはそれを通していつかは自分も真実の愛にめぐり合いたいと願う、そんな自分への照れ隠しも含んだ“おっぱい”。いじらしくさえあります。すべての淫語が男の子の背伸びというチャームにコーティングされ、なんとかわいらしくこだますることよ。

 そこへいくと一通り子作りも終えた40男の“おっぱい”。

 やわらかさへの渇望も母性への望郷も娘だセガレだ持っといて何をいまさら、という世間の声が聞こえてきそうです。や、本当はあるのよ、渇望も望郷もたっぷりと。しかしながら問題はそれがどう現場で響くか。

 決していじらしくも、ましてかわいらしくなどなりようもなく。

 つい最近までと同じソウルで言おうとした“おっぱい”が、体を離れた瞬間にお口のおいにーをまとうような。背伸びゼロ母性抜き純粋エロとしての“ぱいおつ”として世界に放たれるような。

 あわててそんな事態を避けようととっさにとる行動はあたしの場合、

「やー、ええチチでんなー。」

 などと、わざと平べったいニセ大阪弁でお茶を濁すこと。なにを隠そうそれは、自分の中でこっそり鶴光師匠のモノマネをして品性下劣成分をいくばくかでも和らげようという行動。とりもなおさずそれは、己の立場を悪くしたくないがために中学時分から愛していた鶴光師匠に罪をなすりつけようとしてきたことに他ならないではありませんか。

 分析していてなんだか涙がこみ上げてきました。太宰はん、おれ、生まれてすいません。

 大人になるって、つらいとは聞いてはいましたが、まさかこんな角度でつらくなるとは。

 淫語満載の歌詞を力のかぎり歌う銀杏ボーイズが、今夜はそういう意味で眩しく感じられます。

 俺は気がついたらこんなところにいたよ。しかも、もう、引き返せはしないんだ。




 でも、どうしても「ぅおっぱい!」と叫びたい夜は、40以上の男しかいない現場で、他の誰にも聞こえない現場で、思いのたけをぶちまけようっと。

 首藤君、一郎君、呑みに行こうか。個室で。