男・40目前、いよいよ部屋の中がどうしようもない状態になってまいりました。
世のコンピューターやデジタル機材の進化に比例して、どういうわけか我が6畳間に増えてゆくアナログ機材たち。ヴィンテージ(あくまであたしにとっての)の名のもとに。
実に便利で手間も場所もとらず音質キラキラな秀才ソフト音源くんを手に入れるたびに、それならばそれはそれとして欲しくなってしまう野暮ったい音で不器用だがしかし太く味のある昔の音源ども。
小栗旬くんや速水もこみちくんなどに代表されるすーっとしたネガティブチェック・オールクリヤーな男前方面に時代は向かえば向かうほど、ムッシュムラムラ方面すなわち1960年代の長嶋茂雄や三島由紀夫を自分の脇に配置したくなるような。両サイドの男たちにつられていつのまにか俺までアゴが割れてくるような。
妙なとこでバランスとろうとする性癖があるのよ、小生。旬でいいのに、もこみちでいいのに。彼らが輝けば輝くほどカウンターを繰り出すように俺の中で蘇る梶原一騎魂。
かくして各種20世紀産リズムボックスだけで6個。古いターギーが5~6本。誰も欲しがらない巨大なサンプラーにこれまた巨大なMac。無駄に重いシンセが数点、しかも滅多に使わないので部屋の端に立てかけてあります。合間を縫ってCDおよび本棚。これが常時6畳間にぎゅっと。
本気を出せば半畳ほどできる床スペースに正座してせっせと太棹三味線を練習したり。疲れて姿勢が乱れると高級三味線がヴィンテージギター(これは世間的にもヴィンテージ)にごっつんこして、あってはならない衝突事故につながるため常に緊張を強いられ、なかなか良い練習になっておりますが。
ときどき「もし今でかい地震が来て、部屋中のこいつらが正座して身動き取れない俺の頭に次々と降ってきたら…」という思いが頭をよぎったりもします。でもね、「好きなものの下敷きになって旅立つのならそれはそれで悪いこととは言えないのではないか…」などと思い直したり。リズムボックスとエレキとサンプラーとCDと本に埋もれて三味線を抱いて絶命。そんな結末、悪くないと感じておりますが、間違っていますでしょうか。
更に全長3メートル弱に及ぶサーフボード、しかも2本がこのスペースに収まる道理があるはずもなく、現在何も言わずに子供部屋にステイさせております。娘に物心がついて自分が理不尽な状況に置かれていることに気付くまでさほど長い時間はかからないことと思われます。さて、どうしましょう。
その昔、レコードがコンパクトディスクに移行せんとした1980年代後半。世間においては「レコード針なんてえものは時代錯誤の無用の長物としてほどなく絶滅するだろう」なる予言がまことしやかに囁かれ、レコード針を一生分買い占めようとするマニアな輩さえ少なからず存在したものです。
ところが、折しも台頭したクラブDJの皆さんの活躍により、レコードのぶっとくあったかいサウンドが世の若い世代の絶大な支持を受け、2008年の現在に至っても「どこ行ってもレコード針がねえ!」なんてえ事態はいまだ発生しておりません。
こんな風に時代が、文明が、気分がその次の段階へ進めば必ず発生する“追いやられるものたち”。
そのときこそ人は、今どこか未知の地平に立たんとする自分が同時に何を失おうとしているのかを認識するのではないでしょうか。いえ、大多数は失わんとしているものの大切さ、いやいや、失うことそのものさえ気にもかけないでしょう。
そのなかで“追いやられるものたち”の本当の魅力に気付き、「追いやられるのは仕方ないかもしれないけど、だからといって絶滅はイヤ!」と強く思う少数が情熱をもってアゴを割るほどに活動して、いくばくかの人に伝えることに成功する。
文化というのは、そこではじめて生まれ得るるシロモノなのではないでしょうか。
「ああ、あったねえ、ありゃスゴかったよねえ。」
それじゃただの文明です。
「あのとき確かにすんごいことになったアレ。アレだきゃあ何があったって手放して生きていくわけにゃあいかねえ。悪いがお前も巻き込む!」
「うん!」
となってそれで初めて、文化をひとつ手にしたといえるんじゃあござあせんか?
そう、おいらの部屋にあるグッズのどれ一つをとったって、手放してもかまわないモノなどありはしないのさ。
君は「うん」と言ってくれるかい?
と、話を文化論まで大きくして、末期的状況に差しかかりつつあるあたしの部屋の正当性を主張してみました。
してみまはしましたがこれを娘と嫁さんにどう展開するか。これはまた別の話。
さあ、どうしましょう。