このところ、日本芸術院会員の権威が弱小化しているような気がしてならない。その原因は、第三章の第一節 総則の第十一

日本芸術院 第十五には「文化庁に特別の機関として日本芸術院を置く」と記されていたのに、現在は「文化庁に日本芸術院を置く」と、文章の改ざんがなされているのである。

 「特別の機関として」の文章が改ざんされているのである。

 そもそも、政治的生き方と芸術的生き方は、根本的に違うのです。

 政治家は票が全てであるから「他人は自分をどう見ているのか?が気になる」しかし、芸術的生き方をしている人は、確かに他人の目を気にすることも致し方ないのであるが、しかし、どちらかと言うと、「自分自身がどうあるかに気に病む。自分が納得しない作品を描いたり、作っていたら、見ている人も納得しないであろうし、自分でも分からない原稿を書いていたら、読んでる人は、もっと理解できないであろう」と考える。

 蔵の財。身の財。心の財があるように、財界、政治界、芸術界と大きく区別されているのが日本の仕組みになっている。されも、その頭の中心に天皇陛下がいるのです。

 日本芸術院が創設されたとき、天皇陛下の御膝元の宮内庁に日本芸術院を置いても良かったのですが、芸術、文化でもあるから、「文化庁に特別機関として日本芸術院と言う席を、ただ置いおくのが妥当であろう)という事から、特別機関として、文言を使用したのです。もし、芸術界で何か問題が起こったら、選挙で選ばれた「日本芸術院会員の諸先生方が良く話し合い、より良い方向性をお示し下さいね」と政治家に言われたわけではありませんよ。天皇陛下から言われてているのと同じなんですよ。

 聖教分離が本来の正しいあり方なのであるが、政治家が芸術にまで口を挟んできているのです。第三者がどれだけ、芸術界のことを理解しているが、はなはだ疑わしい今日です。

 それには、文化功労者や文化勲章が誰が選ばれたかを見れば、一目瞭然であろう。

 日本美術院の那羽多目功一氏は、とっくに文化勲章を受章しても不思議では無い人であるが、文化功労者にもなって無いことは、不思議としか言いようがない。

                                            文・どんぐり こと 櫻井栄一