実は、自分、道場や人に職業として、指導をし始めたのは、約13年前。
茨城が最初でした。

SB,修斗での、二回のアマチュア全国大会をほぼKO、一本勝ちで連続で制覇し、
プロ格闘家のライセンスを難無く取得。

当時は、
『100年に一人の才能』

と称され、
後楽園ホールの大会で立て続けに勝ち続けてましたが、それでもまだ3戦程のとてもケツの青い、若手選手時代。


到底、格闘技選手だけでは食べていけず、
練習前、後の
数々の掛け持ちバイトをしてました。

でも、もっと強くなりたいとの思いからか、格闘技だけの仕事だで食べていきたい思いがありました。

バイトをしている時間を常に、トレーニングや稽古したかった。


どうすれば格闘技だけの業種で生活していけるのか?
考えた結果、資金のない自分に、ジムをやる為の資金をだしてくれる人を探そうと考えた。

しかし当時、
MMAと言っても、世の中で認知されないと言うましてや、茨城県の地域に、格闘技の文化を広めたいとの願いでMMAのジムを作ってくれる人を探す?。

イロイロと探しましたが無理でした。
長野まで電車賃を親父に金借りて、協賛してくれそうな空手の代表の場所まで頼みにいった事もありました。

『空手の道場としてなら道場をだしてやる』
と言われ、
生粋の空手の道場として、土浦に道場の支部長として、出してくれるとで、やっと、口約束ですが、言ってくれました。

しかし、生粋の空手なんてしたことない自分は
二ヶ月間、その空手の館長の総本山の道場件自宅に泊まり、そして、空手を一から学び、修業しました。

空手よりもMMAしか考えてない自分には、その2ヶ月は意味のないものとしか、思えずめちゃくちゃ辛かったです。

本当はMMAをしたいのですから。

空手の道場として出して、その道場でMMAをやればいいと考えていた自分でしたから、すぐに、館長に見破られ、意見がぶつかり、給料をもらえないまま、破門になってしまいました。(今思えば、良い経験でした。当時の関係者様、未熟だった自分を許してください。今では感謝してます)。

行方がわからなくなった自分は、土浦に戻り、スリム新空手のブス先生に相談しました。
そしたら、ブス先生が家を壊し、ジムを作ってくれると言いました。

そして、共同経営という、口約束をしました。

家を壊し、そこに、
総合格闘技トップスができました。

先生が新空手を教え、俺が総合を教える事になりました。

ジムがスタートし、

そこに、岩瀬や川尻、石田や、現在Tブラットのマネージャーの関氏達が、初心者で入ってきました。
他にも五十人程入ってきました。
経営は順調でした。
そのまま自分も格闘技づけの生活になり、競技者としても、順調にかちあがりました。
トップス勢の教え子達も皆勝ちつづけました。
その辺あたりから、格闘技バブルが来ました。

指導せずにもファイトマネーだけで充分に生きていけるようになりました。

そのまま激勝ちし、
チャンピオンになり、雑誌の表紙も数々になり、テレビにも出て、俺のTシャツを買うのに徹夜組が出て、まさに格闘技バブル期。

当時、まだ若かった自分でしたので、すべてがノリノリ。
競技者である結果もさらなる努力&仲間で激勝ちでノリノリでした。
アブダビ、フランス、アメリカ、出場する大会ほとんどで、すべてヒーローになれました。(言いすぎか?ガーン)
試合パンフレットで、『百年で一人の才能』から『百年で一人の存在になった』と書いてありました。

今のズッファ体制のUFCでも初出場がタイトルマッチという、先にも後にもない、偉業をなしました。(言い訳ですが、アクシデントがなく、勝てばもっと最高でしたが笑笑。)

アラブでも無差別級で二位になりました。

世界のMMAランキングで無差別級で一位になった事もありました。

きっと、競技者としての、昔の俺みたいな奴は先にも後にも自分が生きてるうちはでないでしょう。

そういう意味ではいつ辞めても満足しています。(辞めませんよ笑笑)
自慢話が続いてしまいましたが、全部本当の事なんです。

結果、時計も車も買いました。東京の真中で、ロビーにクラッシック音楽が流れているマンションも借りました。
当時欲しいブランド服はオーナーと友達になり、ほぼ貰えましたガーン

中学時代から憧れていた大物ミュージシャンや、芸術家とも、気軽に電話が出来る程の、仲間になりました。
会いたい人とはほぼ全員会いました。

数年前とは天と地程の違いが生活でありました。
(一人突っ込みですが、つづかないからバブルと言うのですね。笑笑)

そんな状況でも、指導だけはしてましたが、俺が格闘家として自立できたからでしょうか?
土浦の道場は、事実上クビ??になりました。
(しかし、一番苦しい時に自分なんかを雇ってくれた代表には今、感謝してます。)

口約束なんて、一番あてにならないと少年ながらに思いました。



他にも、
その頃は金沢八景ジムでも週一で教えてました。

当時、現UFCファイター水垣も高校生でいました。

当時所属していた、木口道場のレスリングクラスでは笹本誠(グレコオリンピック3回出場)や、まだ格闘技を始めていない、五味隆典もいました。


つづく