20世紀最高のプリマ・バレリーナ、マイヤ・プリセツカヤが亡くなりました。



1925年生まれ、89歳でした。
ロシアに生まれ、第二次世界大戦中にボリショイ・バレエに入団。「ドン・キホーテ」「白鳥の湖」「ライモンダ」「眠りの森の美女」などの古典バレエを踊りました。
古典バレエだけでなく、モダン・バレエに取り組んだり、ロシア文学作品をバレエ化した冒険者でもありました。


しなやかな腕の表現が美しく、プリセツカヤ以前と以降では白鳥の踊り方が変わったと言われるほど、「白鳥の湖」と「瀕死の白鳥」を得意としていました。 繰り返し見た「白鳥の湖」の映像では、威圧するように高貴なオデット、抗うことが無駄なほど美しく妖艶なオディールを踊っています。ロパートキナも、ザハロワも、ロシアの舞姫は、プリセツカヤが築いた白鳥の“型”を受け継いでいるなあとしみじみと思います。


プリセツカヤのファンだった母に連れられ、「瀕死の白鳥」を見に行った事はいつまでも鮮明に記憶しています。

暗闇の中に浮かんだしなやかな腕は、白鳥の羽ばたきにも、湖のさざ波にも見えました。プリセツカヤが通った後、何の装置も無い舞台に、月光を浴びた湖がありありと浮かんで見えました。

迫り来る死に抗いながら、何度も空に羽ばたこうとした白鳥から、「生きなきゃ」と強い意志を感じたことも思い出します。





1996年発行された自伝「闘う白鳥」は、衝撃的な内容でした。
少女時代、両親は警察に連れ去られ姿を消しました。スターリンの弾圧によって父は銃殺刑、母は収容所に送られていた事は、ずいぶん時が経ってから判明します。バレエダンサーだった叔母に育てられ、プリセツカヤはバレリーナとしての教育を受けました。
ボリショイ・バレエの顔として地位を確立した後も、亡命を恐れる秘密警察に付け回されます。古典バレエに飽き足らず西側諸国の振付師と作品を作った時、「カルメン」「アンナ・カレーニナ」を自ら製作した時、ソ連政府の文化統制と常に闘い、抗ってきた人生。ソ連最高のプリマバレリーナとして君臨し華やかなステージに立ちながら、過酷な運命と闘っていたのです。

「瀕死の白鳥」から感じた、生きなきゃ!という強いメッセージは、人生を諦めず闘い抜いたプリセツカヤの生き様そのものだったのですね。


プリセツカヤが生涯連れ添った夫は、作曲家シチェドリン。
「カルメン組曲」「アンナ・カレーニナ」など、今でもマリインスキー・バレエやボリショイ・バレエで踊られているシチェドリン作曲のバレエ。
一つ挙げるなら、私は「イワンと仔馬」が好き。2人が惹かれ合うきっかけとなった作品だそうです。プリセツカヤが踊るヒロインは、輝くばかりに美しい昔話のお姫様。シチェドリンがすっかり夢中になったのも納得です。自伝では、その頃の話も詳しく書かれていてわくわくしながら読みました。



最後に舞台に立つプリセツカヤを見たのは、2008年。能楽師梅若六郎(現在は玄祥)さんとコラボレーションした上賀茂神社でした。
和楽器が入ったラヴェルの「ボレロ」に合わせ、梅若六郎さん、日本舞踊家藤間勘十郎さんが舞う中、天人のプリセツカヤが登場。能のような舞を気の向くまま自由に舞っていました。

この日のプリセツカヤは、無邪気で少女のように見えました。ひたすら舞うことを楽しみ、音楽に身を委ねていました。

最後にプリセツカヤがたどり着いたのは、人生からも、難解な芸術論からも、バレリーナであることからも解き放たれ、無心に踊ることだったのだなあと思い返しています。

訃報を聞いて感じたのは、寂しさより、自ら運命を切り拓き見事に生き切ったことへの感服。
旅立ったあの世では、彼女より先に逝ってしまったパートナー達や振付師達と、新しいバレエを作り踊っているかもしれません。

私が1番好きなプリセツカヤの映像は、50歳頃の「ライモンダ」ですが、まだ見たことが無い人には、やはり「瀕死の白鳥」を見ていただきたいと思います。