Facebookを何気に見ていたら、
「1年前に亡くなった妹の心音を聴く母」
いう外国での出来事のニュース写真を見た。
亡くなった娘さんから心臓移植を受けた人と対面したというニュースだ。
それを見て、
「あぁ、臓器提供も悪くないなぁ」
と思った。
以前の私は、臓器提供はしたくないと考えていた人間だった。
何故なら、死んだ後に臓器提供をして、臓器を失った体で「あの世」に行ったら
「お前は臓器はいらないんだな?」
と、ジャッジされて、次に生まれる時にその臓器が無い状態(先天性の病とか)にされてしまうのではないか?という漠然とした不安があったからだ。
なので、骨髄バンクにはドナー登録をしていた時期があったり、献血には頻繁に通っていたが、臓器提供の意思はなかった。
(男性ホルモン治療を始めてからは、残念ながら両方共出来なくなってしまいました。)
でも、その記事を読んで、ここ1か月の自粛生活は私に心身共に余裕を与えていたらしく、臓器提供に興味が出て来ていた。
「どうせ、体なんて入れ物に過ぎない。使えるなら必要な人に使ってもらえれば良いのだ!」
数年前から親しんでいるスピリュアル的な考えも手伝っていた。
そんな感じで、臓器提供について調べようとしていた私は急に思い出してしまった事がある。
「急に言われても迷惑なんですよねぇ」
あれは、母親が抗ガン剤治療の為に何度目かの入院をしていた時のことだった。
母親の世話で病院に通っていた私は院内で1人の患者と顔見知りになった。
話をしていても、この人が何で入院しているのか不思議な位に元気そうだったのだが、話をしていくうちに、骨髄移植の為に入院しているのだと知った。
何でも、生まれつきの病気があり、移植が必要だという事だった。
今はその準備の為に早目に入院して、ドナーの人が来るのを待っているのだと言った。
「ドナーが見つかって良かったですね!」
骨髄移植のドナーが見つかるなんて、とても幸運な事だという事は当時ドナー登録をしていた身としては知っている。
私が「良かったですね」と言うと、相手の顔が明らかに曇った。
そして、耳を疑う様な事を言い始めた。
「いやぁ、急に言われても迷惑なんですよねぇ」
は?
私は言葉を失った。
何かの聞き間違いかと思った。
ビックリしている私にお構いなしに言葉は続いた。
「こっちにも予定とか都合ってもんがあるのに、ドナーが見つかったって事で全部台無しですよ。ドナーの予定に合わせなきゃいけないし、困りましたよ。
大体、今、体調はすごく良いんです。
なのに入院しなくちゃいけないし、無菌室に入らなきゃいけない。
もし、この入院のせいで体調が悪くなったら
どう責任をとってくれるんでしょうかね?」
悪びれるどころか、
「私、本当に迷惑なんです」
という体で、その人は言った。
ショックだった。
ドナーは無償だ。
仕事だって「個人都合」で休みをもらわなければならない。
後遺症が残る可能性だってある。
なんの特にもならない。
そこにあるのは「善意」でしかない。
でも、この人が言った言葉は「受ける側、患者」からの本音なのかもしれない。
ドナーの善意など本当は受ける側にとっては迷惑なのかもしれない。
それからしばらく私はショックを受けて落ち込んでいた。
すると、1人の顔見知りの看護師さんが声をかけてくれた。
私は彼女にその事を話した。
すると看護師さんは
「そんな事はないですよ。
そういう考えの人は珍しいと思います。普通はみんな必死に病気と闘ってますから!」
と、言い、そして、あまりこういう事は言ってはいけないですがと前置きをして
「その人は『生まれつきの病気』なら、きっと、病気だからと周りから受ける好意が『当たり前』に育ってしまったのかもしれません。
自分の意志を最優先にしてもらうのが当たり前として育ってしまったのでしょう。
それはその人の事だから、気にしない方が良いですよ。お母さんだって頑張っているでしょう!
みんな同じですよ!」
と、言ってくれた。
そうか「環境」か。
さすが看護師さんである。
とても気分が落ち着いたのを覚えている。
あれから、ホルモン治療を始めた事も手伝って、人から驚かれるくらい通っていた献血も一切やめてしまった。
(男性ホルモン治療をすると献血は出来なくなります。行っても断られてしまいます。)
興味もなくなってしまっていた。
でも、この自粛生活の最中、ふと目にした臓器提供のニュースが物凄く心に響いた。
このコロナの騒ぎは、新しい世界への変化の時、場合によっては「変革」かもしれないと私個人はとらえている。
このタイミングなのかもしれない。
世界がこのウィルスと闘っている。
人は生きている限り、病気と闘っている。
たった1人の戯言に囚われず、私は闘う人と闘うその時を思い浮かべてみようと思った。
臓器提供か。
男性ホルモン治療していてもドナー登録は出来るのかな?