地震備忘録です。


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朝早い仙台の光景は、いつもと変わらないように見えて

やはりいつもとは違っていました。

すれ違う人の大きい荷物。

毛布を持っていたり、大きいリュックを背負っていたり、ヘルメットをかぶっていたり。

これからどこに行くのか、やたらたくさんの人たちが歩いていました。

そんな中で、犬の散歩をしたり、ランニングしている人もいて

そのときは違和感を感じましたが

よく考えれば、彼らも町の様子を確認しつつやってたんでしょうね。

今思い返すと、こういう状況でも日常生活は続いていくし

少しずつ、少しずつ日常生活を取り戻すことが

きっと大切なんだよな・・・・としみじみ感じます。


建物は、思いのほか壊れていない印象でした。

阪神大震災のような直下型ではないからでしょうね。

たまにビルの外壁やブロック壁が崩れていましたが

ぱっと見は深刻ではなさそう。


大通りも信号は動いていません。

左車線には、く昨日の地震後に

帰宅しようとして大渋滞に巻き込まれ

ガス欠になったのか、途中であきらめたのか

クルマがたくさん停車されていました。

このクルマは、震災直後はかなりの台数があったように感じます。

(15日たった現在もまだあるようです)

この多数のクルマが車線をふさいでしまうため、

後になって救急車や消防車、自衛隊など

緊急車両の通行の妨げになっておりました。


1時間弱で自宅に到着。疲れた・・・・

マンションは、これもまた見た目は大丈夫そう。

中に入ると、警報機がピーピー鳴っています。

入り口の窓ガラスが一部割れているところがあり、そのせいか?

静かな中に響き渡っていました。

もちろんエレベーターは止まっていたので

非常階段で3階まで。

(3階くらいで良かった・・・これで10階なんかだと

ますます気持ちが折れそうでした)


玄関を恐る恐る開け、部屋を見ると・・・・

テレビとパソコンは無事。

食器棚を見ると・・・皿も全部無事!1枚も割れていません。

冷蔵庫の上に置いていた電子レンジも落ちていない。

逆に驚いてしまい、しばらく放心。

ドレッサーの鏡が落ちそうになっていましたが

これもぎりぎり踏みとどまっており

大きい被害はありません。

このマンションすげーーーー!と叫びそうになりました。

(実際は叫んでないけど、気持ち的にはそういう状況)

ピアスや、細かい小物がばら撒かれたようになっていましたが

全く問題ないレベルです。


が、ベランダを見てぞっとしたのが

エアコンの室外機が、ありえないほど移動していました。。。

そして良く見ると、洗濯機や冷蔵庫、ベッドなど

重いものがかなり移動していました。

何でしょう、揺れのメカニズムって不思議。


電気はつきませんが、このときは水道は出ていました。

部屋の状況を一通りつかめたので

とりあえず寝ました。

もともと、背の高い家具はないし

またも「地震なんぼのもんじゃい」と開き直る気持ちで

余震が続く中、熟睡。

(しかし、後になって良く考えると頭上にエアコンがあった・・・こわっ)


目が覚めると昼過ぎでした。

次に続きます。





地震備忘録。

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職場でも、医師の先生達が集まって出勤の当番を決めたり

看護師さんも役割分担をしたりで

地震対応をしているようでした。

事務もするはず(すでにしてた?)なんですが

なぜかこのときは頭も回らず、召集されることもなく

その日は職場に泊まりました。


暖房も止まってましたが、ラッキーなことに

余熱でかなり暖かく、さらに近所に住んでいる同僚が

毛布を持ってきてくれて(ありがとう!!)

寒さ対策はばっちり。


そうしているうちに、職場の電話に弟から電話があり

母と連絡が取れたそう!!良かったーーー!

で、「それがわかれば、あとは(家がどんなひどい状態になろうとも)

どうでもいい!!」と言ったところ弟は失笑してましたが

実際そんな気持ちでした。

無事でいてくれれば、あとは何とでもなるから。

母は近所の宮城社会保険病院に避難してることでした。

場所がわかり、なるべく早めに迎えに行こうと思いました。


まだ早い時間ですが疲れたので

いすを並べて、足を投げ出して寝ることに。

ラジオの音がありがたかった・・・

ぼんやりと、「名護ちゃん(DateFMのパーソナリティー。いつもは

天然で、明るい感じのラジオをやっている)が真面目に地震情報言ってる。

名護ちゃんもやればできる子じゃん(名護ちゃんごめん)」とか、

「こういうとき本間ちゃん(仙台のタレント?名護ちゃんと組んでラジオをやったり

テレビにも出てる)のキャラはそぐわないのかな~。本間ちゃんの声が懐かしい」

など思いながらうつらうつら。

寝たり起きたりを繰り返し、朝になりました。


余震も相当にありましたが、

もともと地震には慣れてるし

「なんぼのもんじゃい!」と何故か切れ気味に

流していました。

でも、おびえた方は多かったと思います。。。。

しかも、うちの職場は非常電源といえ

薄明かりはありましたが、ほとんどの家では停電して真っ暗です。

窓の外は、今まで見たことがないくらい暗くて不思議な感じ。

今回の地震は、これまでの地震とは質が違うように感じます。

本震の揺れの長さも、余震の多さも。


夜が明け、自宅に戻ることにしました。

6時か6時半くらいに出発。


続きます。





どんなひどい出来事でも、忘れてしまいそう。

正直地震後1週間の記憶は、すでに曖昧です。

多分毎日が非常事態で、いっぱいいっぱいだったから。

被災者というほどの被害は受けていないわたしですらこの状態なので

肉親や親戚、恋人や友人を亡くされた方、家やクルマや大切なものを流された方、

今も避難所暮らしの方を思うと胸が苦しいです。

そんなわけで備忘録を残します。超長文よ。


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地震のときは仙台の大学病院の職場で仕事をしてました。

(ちなみに医療職ではなく、ふつうの事務です。

って仙台の大学病院といえば、1個しかないのでバレちゃう~)

電話中でした。

わたしは小さい頃から震度4、5くらいはしょっちゅう経験してるので

揺れに対する怖さ、というのは実はあまりなく

電話も「あ、地震ですね~」などと途中まで続けてましたが、

「これはおかしい。揺れが今までに感じたことないくらい強いし長い」と感じ、

電話の相手に「切りますね」と伝え

デスクの下に入りました。

デスクの下は妙な安心感があり、「とりあえずこれで一安心」と思いましたが

同僚達はそうでもないようで、「長い!長いよー(揺れが)!」などと叫んだりしてたので

「とりあえず大丈夫だから落ち着け!!」とか言った記憶があります。

もともと、誰かが騒いでるときは逆に(あまのじゃく?)冷静なときがあるんですが

それがあのときは良かったかなと思います。

また、何といっても大学病院(笑)なので

「この建物がだめなら、日本中で大丈夫な建物はないんじゃボケー」というようなことを

思ってました。

将来、かなりの高確率で宮城県沖地震が想定されてる地域です。

そこの医療の中核を担うウチの建物を信じよう、と。

しかし、今までに感じたことのない揺れの長さでした。

体感では5分以上に感じました。


揺れが収まると、棚の中のファイルが転げ落ちたり

パンフレットが散乱していました。

このときは、「ひどいな・・・」と思いましたが

後から地震の状況を知ると、実はこんなのは全くたいしたことないものでした。

テレビも、パソコンも無事でしたし。

しかし、しばらく全員で放心した記憶があります。

そうしているうちに停電し、水もガスもストップしました。

病院なので非常電源は動いているようでした。

ぶっちゃけるとこのとき生理中で、

「トイレどうしよう・・・・」とひそかにおびえてました。


その後、ふと気づき携帯を見ると

仙台市内に住む母と、弟からのメールでした。

実はわたしは、2月に一人暮らしを復活させて

母親を実家に残す形にしていたので

正直とても不安でした。

母のメールには「無事です」とあったものの

電話をかけてもやはりつながりません。

いつもの(?)地震のときですら

携帯はつながりにくくなるし、ここはいったんあきらめました(はやっ)。

で、弟は県外だし大丈夫かな?と思いましたが

やはりつながらず。

メールの返信で「こっちも無事」と二人に送り

届くことを祈りました。


停電で、テレビが観れず状況がわからないので

別の部屋からラジオを持ってきました。

どうやら、今までになく大きい地震らしい・・・という認識はできましたが

体がふわふわして、揺れてないのに揺れてるかんじで

何も手につきません。


ふと、「安否確認しなきゃ」という話になり

うちで面倒みてる研修医の先生のPHSにかけたりなんだりしているうちに、

職場の固定電話が使えるようになりました。

復旧はやっ!


その電話で、同僚達は家族に連絡をし始め

ここでわたしも弟に電話をしたらつながった!!!

「大丈夫だよ~」と伝えたところ

いいおっさんの弟が、電話口で「良かった・・・・・・」と絶句し、号泣したのが

とても驚きで「何アンタどうしたの?」と突っ込んだり

同僚に「うちの弟泣いてますよ~」とネタにしたんですが

このときは、こっちは停電で各地の津波の被害とか、を全く知らない状態だったんですね。

なのでとても不思議でした。ニブイあたし。


母には、弟も連絡を試みたがやはり電話は通じないそう。

直後に「無事」とメールがあったもののやはり不安です。

多分、近所の小学校あたりに避難してると思うので

そちらに連絡してもらうように頼みました。

こっちは、停電だったので携帯は命綱!と感じてましたので

電源は早い段階でオフにしました。

そして、連絡は職場の電話にしてもらうことにしました。

これで、わたしと弟のホットライン(笑)は確保され

だいぶほっとしました。

弟が県外にいてよかったなーとぼんやり思いつつ。


そうしているうちに、職場ではトイレの水は流れるようになったと

放送がありました。良かった!!


しかし、その日は偶然職場のボスの医者2人がそろって外勤の日で、

さらに事務の上司もインフルエンザで休んでました。。

その3人にも電話を何度かかけましたがつながらず。


そうこうしているうちに、徐々に暗くなり

「今日はどうやって帰ろうか」という話になりました。

わたしは、住んでるところがオートロックで

停電時に入れるのか不安だったのと

暗い中で、一人で帰って自分ちの惨状を(多分テレビはやられてるよな、

パソコンは無事だろうか、皿は何枚割れてるだろうか・・・などなど)

受け止める自信がなかったので、

今日は職場に泊まり、明日の朝に帰ることにしました。

近所に住む何人かは、様子を見に早めに帰宅したり

遠くに住む子は、同じ方面の知人を発見し

タクシーで帰ることになりました。


続きます。