※5/21 末尾に追記しました。
はじめに
前記事は、内容的にハッシュタグが憚られましたので、外して投稿しました。
しかし、ご本人は悲しみの中でも自身の名前・出演番組・プロジェクトなどに#を付けて投稿なさっていました。
「親の死去を嘆き悲しむ投稿」を批判することはタブーである。
それがおそらくは常識だろう。
しかし「状況や立場あるいはその程度」によっては、その投稿行為の非常識さを批判することは当然あり得ることだ。
「批判はタブーである」という一般的常識や人の心理を利用していると感じる事象もある。
そもそも、著名人が至極「私的」な家族の慶弔をWebに載せて不特定多数に発信する行為自体が非常識のように感じる。
Y氏を心配するファンが、T氏に対して「哀悼の意を示すことを求める」行為などは言語道断だ。
このような行為を誘発しても、一部のファンの暴走で済ますのだろうか。
※一週間を過ぎたことやその後の展開も変わったことから、本日ハッシュタグを付けました。
「泣く」という行為は特に子ども時代によく見られる。
子どもによく見られる「泣き落とし」。
成長と共に徐々に見られなくなる事象ではあるが、小学校段階でも頻繁に「泣き落とし」の行動を起こす子どもがいる。
https://www.shinga-farm.com/parenting/childs-using-tears/
(記事から一部引用)
心理学では、ある行動が増える、もしくは続く、こういうとき、その行動の裏に、何らかのメリットがあると考えます。つまり、泣き落としが多いお子さんの場合、結果的に、泣くことが、その子にとって「得」なので、泣くことが増えてしまっているというわけです。もっとも多いのが、親が子どもの泣きに堪忍して、結果的には要求を飲んでしまっているケースです。
泣き落とし解除、実践するときには
もし
● 泣けば、クッキーをくれる
● 泣けば、買ってくれる
● 泣けば、動画を見せてくれる
のであれば、誰だって、「やっぱり泣いてよかった」と思ってしまいます。
要は
● 泣いても、クッキーをくれない
● 泣いても、買ってくれない
● 泣いても、動画を見せてくれない
に持っていけばいい
…泣いたとき、ママがいつもみたいにリアクションをしてくれないと、子どもは、「あれ、泣きが効かない?」「ママが反応してくれない?」と感じ、さらに泣きを激しくすることがよくあります。
このリバウンドの大泣きがなぜ起こるのか、電気のスイッチの例を使って説明しましょう。
私たちは、家の中の照明が切れたとき、まずどうリアクションするでしょうか? 「あれ、変だな?」「接触が悪いのかな?」と何回もスイッチをガチャガチャッと勢いよくオンオフしますね。
子どももこれと同様で、ママに泣いて訴えても効かないとき、「もっと激しく」「もっと大きく」とそれまで以上の勢いで泣いて、本当に反応してくれないのかを確かめるようになります。
この段階で多くのママが屈してしまいます。「余計に泣きがひどくなってきてしまった」「このやり方は効かないのだ」と感じてしまうからです。そして結局、クッキーをあげてしまう、動画を見せてあげる、など、要求を飲んでしまうのです。
すると、さらに状況は悪化します。
次回以降、これまで以上のパワーで泣くのが、新たなテンプレートになってしまうのです!
子どもなりに、「激しく泣くことがポイントだったのだ」と理解するからです。
(引用終わり)
その悪循環を断つためには「泣いていない状態をほめる」のがポイントのようだ。
「自分で気持ちを落ち着けられたね。がんばったね」「自分で泣き止めたね。強い子だね」とほめてあげるのだそうだ。
そのようにして、自分で自分の感情をなだめる機会を持つことは非常に大事なことであり、その子のセルフコントロール力は効率的に高まっていくらしい。
「泣き落とし」…学童期に入る前には改善しておきたい行動である。
「泣くこと」には多くの効果がある。
① ストレス解消
ストレスホルモンを体外に排出する。
② 痛みが緩和される。
涙には苦痛を和らげるエンドルフィンが含まれる。
③ リラックス効果
交感神経から副交感神経へとスイッチが切り替わる。
④ 睡眠の質が上がる。
副交感神経が優位になっているため、たくさん泣いた後、眠ってしまう人(特に子どもによく見られる)も多い。
⑤ 自分を解放できる。
この「泣く」という行為ができる人はまだ自浄作用があり、回復も見込めるだろう。
しかし、衝撃的な体験をしたときや悲しみが深すぎるとき、涙も出ないと言う経験は多くの人にあるだろう。
何も手につかない。涙も出ない。
ましてやSNSへの投稿などできるような状態ではないだろう。
そのようなときこそ深刻な状態なのだと思う。
東日本大震災
あのとき
涙を流さない子どもたちの情報は私の胸をついた。
泣いている子どもがいたら
もちろん駆け寄って話を聞き
その解決に向けて力を貸すだろう。
しかし、辛く悲しい思いをしても
声も上げず
涙も流せずにいる子どもがいるとしたら
大人たちはその痛みに気づき
手を差し伸べ
解決への手助けをすることを
決して疎かにしてはならない。
大声で泣く子どもにばかり
気を取られてはならない。
声を上げない子にこそ
寄り添い
心の声に耳を傾けなければならない。
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(追記)
先日来、このブログを自分で読み返してみて、何だかずっとモヤモヤしていた。
今日その理由が分かった。
「泣く」という行為
それは人としての自然な感情の表出である。
泣くことの効用についても前述した。
しかし、人前で大っぴらに泣くことが受け入れらるのはおそらく学童期まで。
いや、小学生であっても人前で泣くことを恥ずかしいと思う感情を持っている。
「あいつ、すぐ泣くよな。」
「泣いたもん勝ちかい!」
「泣いて先生に言いつけるから、結局俺らが怒られるよな。」
・・・よく耳にしてきた子ども同士の会話。
大人が公然と泣きを公開する。
そしてそのことへの周囲の反応が気持ち悪すぎる。
「泣く」という悲しみの感情だけでなく他の感情に関しても、私たちは日常生活でそのまま表しているわけではない。
特に、負の感情(怒りなど)は周りへの影響も大きい。
要するに、私たちは人との関わりの中で感情表出の制御をしばしば行っており、それは社会生活を営む中での重要なスキルなのである。
学童期以前に見られる「泣き落とし」も、就学と共に多くの友達との学びの中で制御されていく。
発達の過程で、他人の前で「泣くこと」を抑制することを学び、意識づけられていくのである。
しかし、一人っきりで泣いたのでは、辛さの解消や気分の改善に繋がりにくいこともあるだろう。
そのような場合、心理学的には「ある一人の他者」の前で泣いたときには気分の改善に繋がるのだそうだ。その他者とは友人であったり、家族であったりする。
しかし、友人の前で泣いた場合、その後の関係がぎこちなくなる場合があるという否定的な側面があるという。
結論として
大人が不特定多数の前で泣くことは、ほとんど否定的な側面しかないのだ。
SNSで「泣いている」ことを訴えることは、不特定多数の前で泣いているも同然。
それなのに、状況的に誰もその行為を諫められないどころか、心配と共感とが渦巻き、SNSを通じて哀悼の意を示すことを他者に求める声まで出てくる異常。
SNSで私的なこと(親の死去)を速報すること以上に私が感じた違和感はそこにあった。