8月6日は8時15分。

8月9日は11時2分。


これを見て、ピンとくる人も多いと思う。

広島と長崎の原爆投下時刻。


6日は、刷り込まれてるくらいに身についている私が、9日にきちんと黙祷を捧げるようになったのは、恥ずかしながら社会人になってからだ。

9日であることは勿論知っていたけれど、正確な時間は覚えていなかった。

私の職場が、そういうことに割合きちんとしていたため、やっと覚えたようなもので。

私が就職して覚えてよかったと思える、数少ないこと。


沖縄の悲劇については、小学校の高学年くらいに習った。

原爆とはまた少し違う、胃の底をかき回されるような苦しさを感じた。

極限状態に置かれた人間の、言い様の無い苦しさや哀しさを、ナマの感覚で話す、当時の体験者の方の話。

まだ、感性がもっと鋭かった子供の私の心に、その声と写真が刻まれた。


わたしの実家のある街も、軍の司令部があったため、大空襲を受けている。

当時の「何も無くなった街」や、虚ろな人々の顔の写真。

オトナたちが昨日の事のように話す、「その時」の話。

話をせがむと、言い様の無い悲しい表情で目を伏せた、近所のおばあちゃんの顔。


夏は、私にとって、いつもより強く「平和」を考える季節だ。


これらのことを、毎日いつも思い出すわけじゃない。

はっきり思いを馳せるのは、毎年の式典などの中継の時くらいだ。


けれど、現在の幸せを願うとき。

世の中の悲しい出来事を聞いたとき。

言い様の無い矛盾や疑問を抱えたとき。


心の底に刻まれた、さまざまな知識や思いが、ふつふつと動き出すのを感じる。

様々な場面で、何度も何度も繰り返し教えられたことが、私の中に確かに渡されていたのを感じる。

もちろん、ナマの体験をした人々と同じように…というほど奢っているつもりはないけれど。

大切な部分は、平和を思う気持ちは、きっと変わらないから。


人間の業は深い。

与えられても手に入れても、まだ多くを欲する。

まるで海水を飲んで渇きを潤そうとしているように。


欲して、求めた結果、便利さや派手な暮らしが現実になった。

けれど、本当の幸せを、どこかに置き忘れてきてないだろうか?


見ず知らずの、隣にいる人。

あったことも無いけれど、確実に存在する、他の誰か。

そんな人たちに対する「思いやり」。


些細なことだけれど、ちょっとだけ、思いを馳せてみる。

それだけで、みんなの暮らしが少しだけ、楽になるかもしれないのに。

ちょっとだけ譲って、ほんの少し我慢すれば、みんなが豊かに、幸せになるのに。


その「思いやり」が、いつかは自分に向けられたはずなのに。

忘れてしまったそれは、自分に返ってくることは無い。

返ってくるはずがない。


なのに、自分にだけは、その「思いやり」を受ける権利があるはずだと、根拠の無い要求を繰り返す。

どこに向けているのか、両手を一杯に広げて。

自分が良ければ、それでいい。

みにくく、浅ましい人間に、いつの間にかなっていないだろうか。


ほんのちょっと、立ち止まって。

ほんのちょっと、周りを見渡して。

ほんのちょっと、相手のために。


その繰り返しで、良くなっていくことがあるんじゃないかと。


世界平和という大きな問題も、地球環境問題も、元をたどれば「ニンゲン」の問題。

平和で平穏な環境がある、これがどんな欲よりも、優先されることじゃないのか。


もう少し。

ほんのちょっとだけ。


わたしたちは、心の棚に余裕を持ってもいいと思う。


自分の知らない誰かのためのスペースを作るって、きっと素敵だと思う。


みんなのためを思える世の中。


平和って、案外近くにあると思う。



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