日経新聞と坂東眞砂子氏

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このタイトルで、ピンときた方は、このニュースをご存知の方ですね。


かなりショッキングな話です。

(実は、一度UPしたんですが、ショックが大きいので、一度先に載せたお気楽記事に差し替えたんですが…やっぱりもう一度、抑え目に書きます)




作家の坂東眞砂子氏が18日の日経新聞で

 

『日常的に子猫を殺している 』


というコラム記事を発表したんです。


このことを、私は今日、ネットサーフィンしていて知りました。


あまりのことに、貧血で倒れそうになりました…



氏は、直木賞も受賞しているホラー作家ですので、ご存知の方も多いでしょう。

この話は、タヒチにて行っている(…文脈からすると、そうらしい)ということですが、日本であれば立派な犯罪です。

信じられない事ですが、氏は、猫を3匹飼っているそうです


そもそも、そんな日常的に犯罪を行っている話を、日経新聞という公の報道が、堂々と載せている神経が知れません。


簡単(乱暴)に例えるなら、「日本じゃ犯罪だけどこの国ではOKの大麻をやってます~」というような話を、日経が載せたと思えば、大体私が持った疑問を理解していただけるかと思います。


以下『』で、氏がコラムで語っている文章から抜き出します。


『避妊手術を、まず考えた。
しかし、どうも決心がつかない。
獣の雌にとっての「生」とは、盛りのついた時にセックスして、子供を産むことではないか。
その本質的な生を、人間の都合で奪いとっていいものだろうか。』


『もし猫が言葉を話せるならば、避妊手術なんかされたくない、子を産みたいというだろう。
飼い猫に避妊手術を施すことは、飼い主の責任だといわれている。
しかし、それは飼い主の都合でもある。
子猫が野良猫となると、人間の生活環境を害する。』


『私は自分の育ててきた猫の「生」の充実を選び、社会に対する責任として子殺しを選択した。
もちろん、それに伴う殺しの痛み、悲しみも引き受けてのことである。』


セックスして子供を産むだけが「生」なんでしょうか?

その後、子供を育ててこそ、充実した「産みという生の過程」じゃないんでしょうか?

氏が言っている事は、子育て中に、不幸にして育たなかった…というのとは訳が違う。

そんな中途半端なロジックで、「猫の「生」の充実」とはよく言えたもんだと思う。


「人間の都合」を悪だと位置づけておきながら、その後「人間の生活環境を害する」から子猫を殺す、ときたもんだ・・・

「もし猫が言葉を話せるならば」、子を産みたい、そして自分の手で育てたいというんじゃないでしょうか?

子猫を産んで取り上げられる悲しみは、避妊手術を受ける衝撃より、大きいのではないでしょうか?


そもそも、避妊手術もしたくない、子猫が生まれて困るのならば、猫を飼わなければいいのではないでしょうか?


もう少し譲歩して、どうしても避妊手術をせずに飼うのであれば、絶対に外へ出さない完全室内飼いにすべきでは?

それが「生の充実」ではないというならば、やはりそういう人は生き物を飼う事自体が間違っていると思います。


避妊による「殺し」(だと氏は位置づけている)では、まだ命は、半分の卵で、母体の一部。

子猫になれば、一つの独立した命。

そういう区別も付けられないのでしょうか?


そもそも、猫が人になつくのは、餌をもらえるからだけだ…のような気持ちで、猫を飼っているというのが、理解に苦しみます。

そんな気持ちで飼われている、氏の猫たちが気の毒でなりません。


思うことは人それぞれでしょう。


社会的影響を与える立場にある人と、機関が発表した記事だとは、とても思えないくらい悲しい衝撃でした。


(一番末尾に、全文を転載します。 見たくない方は 避けて下さい)



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色々意見もあるでしょう。

でも、私には氏のロジックは理解できませんでした…


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******以下転載(改行はブログ管理人)********


日本経済新聞18日夕刊『プロムナード』


「子猫殺し」     坂東眞砂子

 こんなことを書いたら、どんなに糾弾されるかわかっている。

世の動物愛護家には、鬼畜のように罵倒されるだろう。動物愛護管理法に反するといわれるかもしれない。

そんなこと承知で打ち明けるが、私は子猫を殺している。


 家の隣の崖の下がちょうど空地になっているので、生まれ落ちるや、そこに放り投げるのである。

タヒチ島の私の住んでいるあたりは、人家はまばらだ。

草ぼうぼうの空地や山林が広がり、そこでば野良猫、野良犬、野鼠などの死骸がごろごろしている。

子猫の死骸が増えたとて、人間の生活環境に被害は及ぽさない。自然に還るだけだ。


 子猫殺しを犯すに至ったのは、色々と考えた結果だ。
 私は猫を三匹飼っている。みんな雌だ。雄もいたが、家に居つかず、近所を俳個して、やがていなくなった。

残る三匹は、どれも赤ん坊の頃から育ててきた。当然、成長すると、盛りがついて、子を産む。タヒチでは、野良猫はわんさかいる。

これは犬も同様だが、血統書付きの犬猫ででもないと、もらってくれるところなんかない。

避妊手術を、まず考えた。しかし、どうも決心がつかない。

獣の雌にとっての「生」とは、盛リのついた時にセックスして、子供を産むことではないか。

その本質的な生を、人間の都合で奪いとっていいものだろうか。


 猫は幸せさ、うちの猫には愛情をもって接している、猫もそれに応えてくれる、という人もいるだろう。

だが私は、猫が飼い主に甘える根元には、餌をもらえるからということがあると思う。

生きるための手段だ。もし猫が言葉を話せるならば、避妊手術なんかされたくない、子を産みたいというだろう。


 飼い猫に避妊手術を施すことは、飼い主の責任だといわれている。しかし、それは飼い主の都合でもある。
 子猫が野良猫となると、人間の生活環境を害する。だから杜会的責任として、育てられない子猫は、最初から産まないように手術する。私は、これに異を唱えるものではない。


 ただ、この問題に関しては、生まれてすぐの子猫を殺しても同じことだ。

子種を殺すか、できた子を殺すかの差だ。避妊手術のほうが、殺しという厭なことに手を染めずにすむ。

そして、この差の間には、親猫にとっての「生」の経験の有無、子猫にとっては、殺されるという悲劇が横たわっている。

どっちがいいとか悪いとか、いえるものではない。


 愛玩動物として獣を飼うこと自体が、人のわがままに根ざした行為なのだ。

獣にとっての「生」とは、人間の干渉なく、自然の中で生きることだ。生き延びるために喰うとか、被害を及ぼされるから殺すといった生死に関わることでない限り、人が他の生き物の「生」にちょっかいを出すのは間違っている。

人は神ではない。他の生き物の「生」に関して、正しいことなぞできるはずはない。どこかで矛盾や不合理が生じてくる。


 人は他の生き物に対して、避妊手術を行う権利などない。

生まれた子を殺す権利もない。

それでも、愛玩のために生き物を飼いたいならば、飼い主としては、自分のより納得できる道を選択するしかない。


 私は自分の育ててきた猫の「生」の充実を選び、杜会に対する責任として子殺しを選択した。もちろん、それに伴う殺しの痛み、悲しみも引き受けてのことである。(作家)