『国盗り物語』

< 第三部 信長・桶狭間の戦いから天下布武の道 >


足利 義昭は、足利将軍家の家督相続者以外の子として、慣例により仏門に入って「覚慶(かくけい)」と名乗り一乗院門跡となっていた。

第13代将軍であった兄・義輝らが暗殺された時、覚慶も松永久秀らによって捕縛され、興福寺に幽閉・監視されたが、明智光秀と細川藤孝に助け出された。


足利義昭(覚慶):相島一之さんハート


近江の和田惟政を頼って落ち延びた覚慶に会うために和田館に光秀が訪れる。



そこで、光秀は信長が美濃を手に入れたらしいと聞き、美濃に確かめに向かうと、稲葉山城陥落の後、岐阜と名前を改められていた。

覚慶は、近江矢島少林寺に移り、髪をたくわえ、足利義秋と名乗ったのだった。


光秀と藤孝の努力があって、越前の朝倉は、義秋を領内の敦賀・金ヶ崎城に迎えることになった。

流浪の将軍後継者である義秋は、仮の宿とはいえ、ひとまず、落ち着く所を見つけることが出来たのであった。

朝倉が、挨拶に訪ねて来て、歓迎の酒盛りをする。

義秋は、将軍再興の話をするが、朝倉は、難しいことはわからないと言う。

光秀に「あの男の本性か?本性てか?」と聞き、心配する義秋


足利義秋を織田家で、保護したうえで、京にのぼり、征夷大将軍を継がせ、その権威によって、天下を望むという光秀のけんさくに信長は賛同し、美濃の立政寺に義秋を迎えた。

義秋から義昭に改名した。



「いつ、京に戻れる?2年先か、3年先か?」と信長に聞く義昭


「来月か、再来月に。」と答える信長に驚く義昭


それから、一ヶ月後、信長は京へ四万の大軍を率いて上洛した。

義昭はひとまず、清水寺へ

京での織田軍は、よく統率され、乱暴など働くことはなく、信長は今の乱世を鎮めてくれると、おおいに期待していた。

信長の介添えにより、足利義昭は、征夷大将軍に任ぜられた。

いよいよ、室町幕府を再興することになったのである。



本国寺にて、

義昭は「流遇の身から、征夷大将軍になれたのは、全て、その方のおかげである。」と信長にお礼をいい、副将軍にと言うが、断る信長。


「では、管領(かんれい)は?どこぞの国でも・・・。」と、領地を持っていないことに気がつく義昭


信長は、堺、大津、草津に大官をおいてほしいと言う。


藤孝に聞き、「許す。」と言う義昭


信長は木下藤吉郎に、京都守護職になるようにと言う。

「なぜ、光秀じゃないのじゃ。追い返せ。」と言う義昭だったが、「この藤吉郎、信長の命により、京都守護職に、信長がすぐにでも、京を去れば・・・。」と言われ、会うことに。


 
   
 

酒を飲み、大猿、子猿を真似て、踊り出す藤吉郎を見て、「信長は容易な家臣をもっておる。」とため息をつく義昭

 


信長は、そのあと、すぐに、京都守護職に光秀を任命したのだった。

義昭は「世は、信長が信じられん。わしは、幕府を開く。信長は、わしを将軍にはしたが、幕府を開かせるつもりはない・・・。」と言い出す。

 
 

「時をお待ちくださりますよう。ご無理なさらぬように。」と光秀。

「待っていても、何もかわらぬ!何も起こらぬ!何が無理だ!将軍が幕府を開こうというのに、何が無理なんだ!」と怒り、返事をしない光秀に「その方は、黙ったまま、ずーっと、石になっておれ。」と怒る義昭。


義昭は、諸国の強豪たちに将軍御教書を送り、活発に動き出した。



互いに争い事をやめ、世に将軍があると書き記し、再興した室町幕府を印象づけようとしたのである。

そのことを悩む、藤孝と光秀。

信長は、義昭に会いに行き、「あまり、自ままをなされぬな!」と諫めるが、「私は征夷大将軍である。その職を忠実にやっているだけである。」と義昭


 


「今まで出した御教書を破棄するよう。諸国に御内書をする時は、信長に相談し、信長の添え状を付すること、聞き入れなければ、おためよろしからずと思し召されよ。」と言う信長。

 


義昭が、光秀の名を呼ぶが、振り向かず、信長と立ち去ってしまった。



だが、義昭はあきらめず、御内書をだし続けた。



越後上杉、越前朝倉、甲斐武田、安芸毛利、播磨の本願寺、近江の叡山などと同盟を結び、密かに信長包囲網を作り上げていった。


信長を倒す!これが義昭の覚悟であった!!