――喫茶店『宵の黒猫』。

 それが篠崎界の勤め先の名であった。

 場所は天津崎中央総合病院――篠崎境花の入院している病院から、歩いて三分程の場所。カウンター席が八脚に四人掛けテーブルが三脚という小規模な店であるが、手頃な値段で美味しいお茶とお菓子が楽しめる事で、周囲ではよく知られた店である。

 界がこの店にアルバイトとして勤めるようになったのは今年の春先――高校に進学したばかりの頃の事。

 その日も界は境花の見舞いの帰りであった。その日は界と境花の共通の友人である、鳥居朱乃、も見舞いに同行しており、彼女と二人での帰り道。以前から常連も同然に利用していた『宵の黒猫』にふらりと立ち寄った時の事である。

「ねぇ、君達………。ウチでアルバイトする気、ない?」

 店長の、蒼井夜名、にそう話し掛けられた事がアルバイトを始める切欠だった。

 そんな事があって、二人はもう半年以上もの間『宵の黒猫』のアルバイト従業員として働いている。

 そして今日もまた二人は『宵の黒猫』に勤めている。のだが――。




「………お客さん。来ないですね………」

 カウンター席の一つに腰を下ろした鳥居朱乃が、喫茶店の扉を見詰めながら小さく呟きを零した。

「ま、そんな日もあるわよ」

 そんな朱乃の呟きに、店長である蒼井夜名は酷く暢気に応えながら、カウンターに立ったまま湯気を立てるティーカップに口を着けた。その隣では、シャワーを浴び終え、北欧の民族衣装をアレンジした様な白に青いアクセントの入った制服に着替えた界が、黙々と手元の洗い物の片付けを行っていた。

 時刻は界が出勤してから小一時間程たった頃。まだ昼過ぎの時間帯だが、外の曇天の所為か辺りは既に日が沈んだ頃の様な薄暗闇で、心なしか店内の電灯も普段よりも明るく感じられる。

 そんな店内に響いているのは、外から聞こえる雨音と界の洗う食器の擦れる音。他に大きな物音はなく、何処か寂しげな雰囲気が店内には満ちていた。

 珍しい事に、今日の『宵の黒猫』の午後の来店者は皆無であった。

 この店は基本的には喫茶店だが、他にも簡単な軽食の様な物も提供しており、その所為もあってか店内には割といつでも四、五人のお客さんが入っている。――のだが、今日は店内に従業員以外の人間は入っておらず、『宵の黒猫』は非常に珍しく閑古鳥が鳴いている状態にあった。

 夜名にとっては珍しくもない事の様で、美味しそうにミルクティーを啜っているが、あまりお客のいない状態を体験した事のない朱乃は、何処か落ち着かない様子で扉の方へと視線を注いでいる。

 それは界も同じ思いだった。基本的に界と朱乃の勤務時間は同じである為、界もまた人がいない店内に妙な違和感を覚えていた。そんな中、手持ち無沙汰を紛らわせる為に昼間、まだ雨が降り始める前に訪れていたお客の食器を洗っていたのだが、それももう直に終わる頃である。

 そんな、どうにも落ち着かない雰囲気の中。雨の音だけが何処か淡々と響き続けている。

「………ん? 界くん。もう洗い物も終わり?」

「はい。もう、これで終わりです」

 美味しそうに紅茶を啜っていた夜名が界を振り返る。その頃には、既に最後のグラスを磨き終える所であった。

 それを背後の食器棚に収める。と、途端に界もまた手持ち無沙汰となり、立ち竦んでしまう。その様が可笑しく映ったのか、夜名は小さく笑い声を零し、手元のカップをカウンターのソーサーへと戻した。

「界くんもカウンターに座って。お茶入れてあげるから。ちなみに私の奢りで」

「え? でも」

「いいから、いいから」

 そう言って楽しそうに笑う夜名にカウンターから追い出され、結局、界もまた朱乃同様にカウンターに腰を下ろした。場所は彼女から一席跳んで隣の席。

「お疲れ様」

「あぁ、ありがとう」

 一席跳んで隣の朱乃がそっと微笑み労ってくれる。それに何処か気恥ずかしい物を感じつつ、界はそう応えた。

 ――界と朱乃の付き合いは、もう三年程になる。が、それでもやはり界は慣れないと思う。

 三年前の二人が知り合った当時、朱乃は境花と同じ入院患者であった。その縁もあって朱乃と境花が知り合い、境花を通じて界は彼女と知り合う事になったのだ。その後、朱乃は無事退院し、通い始めた中学が同じであった事から、今日まで付き合いが続いている。

 それほどの付き合いになるが、それでも界は今も慣れないと思う。

 朱乃の屈託のない微笑を向けられると、どうにも面はゆく感じる自分の青さに苦笑いを零しつつ、界は朱乃と向き合う様に腰を下ろした。

「ね、今日来る前に境花の所、寄って来たんでしょ? 元気にしてた?」

「あぁ、いつも通りだよ。相変わらず………起きているより、眠っている方が長い」

「そっか………」

 朱乃は嬉しそうに、だが同時に何処か複雑そうな笑みを浮かべた。その様子に界は訝しげに眉根を顰める。

「何か、あったか?」

「あ、うん………。実は少し前に、ちょっと口喧嘩をして、ね………」

「口喧嘩?」

 界は思わず朱乃の顔を覗き込んだ。

 朱乃はどちらかと言えば育ちの良い大人しい性質の少女である。基本的にずけずけと物を言うタイプの境花とは対極に位置するタイプの少女で、喧嘩をする様な正確にはとても見えない。もうそれなりに長い付き合いになるが、少なくとも界の眼に、彼女が境花と正面から言い合いをする様な少女には見えなかった。

「理由は………聴かない方が、良いか?」

「うん………。でも、次に病院に行った時、もう一度、ちゃんと話してみようと思ってる」

「そうか………」

 何と言っていいか分らず、界は口を噤んだ。

 異性という事もあってか、界には境花と朱乃の付き合いについては詳しくは知らない。ただ二人が互いに親友と呼び合える仲であるのだけは漠然と理解していた。二人ならきっと何とかできるだろうと思うが、何も口を出せない事はやはり歯がゆい物を感じざる負えない。

「………ごめん。何か、気まずくなちゃったね」

「いや………。気にしてない」

「そっか………。ありがとう」

「? 礼を言われる様な事は言ってないぞ?」

「何となく、言いたくなっただけだよ。気にしないで」

「そうか………」

「うん」

「………で、話は終わり?」

 唐突に頭上から声が聞こえ、界と朱乃は二人して弾かれた様に、顔を上げた。

 そこでは夜名が酷く楽しげに笑いながら、カウンターに両手で頬杖を着いた格好で、二人を見下ろしていた。

「夜名さん………。趣味、悪いですよ?」

「あら、ごめんなさい」

 朱乃がやや不満そうに言うが、夜名は悪びれた様子もなく、くすくすと笑いながらそう言って、二人の前に紅茶の入ったカップとソーサーを差し出した。

「………いつ頃から聴いてたんですか?」

「ごめんね、の辺りからね? 二人だけの世界に入っちゃってるから、ちょっと悪戯したくなっただけよ。これで勘弁して」

 界の問いに夜名はそう言って、今度は彼女特製のチーズケーキを二人に差し出した。店での評判は高く、早い時は午前中で完売してしまうのだが、今日はどうやらまだ残っていたらしい。

 それに朱乃は少し驚いた様な顔をし、ケーキをまじまじと見詰めてから夜名の顔を見上げる。

「これ、食べちゃって良いんですか?」

「良いわよ。どうせ、今日のは売れ残っちゃうでしょうからね。折角なら、誰かに食べてもらった方が良いでしょ?」

「………なら、喜んで戴きます」

 夜名の言葉に朱乃は嬉しそうに目元を細め、ケーキを口にし幸せそうに顔を綻ばせた。

 界も紅茶とケーキを口にする。基本的に甘い物は苦手な界だが、少し強めに淹れられた紅茶が美味い具合にケーキの甘さを緩和してくれる、絶妙な組み合わせである。

「今日はそれ食べ終わったら、帰っていいわよ」

「え?」

 唐突に言われ、界と朱乃は同時に顔を上げた。

「どうしたんです? 今日は何かあるんですか?」

「うん。実は、ちょっと急用ができちゃってね………。今日はもうお店を閉める事にしたの。………こんな天気じゃ、もうお客さんも来ないだろうし、君達も帰るなら早い方が良いでしょ?」

「まぁ、そうですけど………。いつ連絡があったんですか?」

「君達が二人だけの世界にいる時に、携帯にね。………ま、そ言う訳だから、今日はもう上がり。私はちょっと急ぐから、クローズもお願いね」

「はぁ………」

 そう言って、少し急いだ様に奥へと姿を消そうとする夜名。だが彼女は奥へと消える寸前に、こちらを再び振り返った。

「あ、そうそう、一つだけ言い忘れてたわ」

「何です?」

 界が問う。と彼女はいつになく真面目な表情を浮かべた。

「天使に気を付けなさい………。もし、天使に思い当たる様な物や者にであったら、全力で逃げる事………良い?」

「あ………はい」

「分りました………」

 過去に見た事のない真剣な表情と声音の言葉。それに界と朱乃は反射的にそう応えると、夜名はいつもと同じ微笑へと表情を作り変えた。

「なら、安心。じゃ、後はよろしくねぇ」

 そう言って、彼女は足早に店の奥へと姿を消す。

 界と朱乃はそれを何処か呆然として、見送る事しか出来なかった。