――ぱたんっ。

 横開きの扉が閉まる音が、微かに病室に木霊する。

 篠崎境花は双子の弟の消えたその扉を見詰め、彼が立ち去る時に浮かべていた微笑を徐々に曇らせた。

「………ごめんね。界」

 小さく呟きを零す。窓を叩く雨音に掻き消されてしまう程の小さな呟き。色々な思いが入り混じり、どんな意味を持つか、自身にさえ解らない様な、本当に小さな呟き。

 おもむろに視線を窓辺へと向ける。

 まだ昼間の二時だというのに、外の光景は夜の様に――ある意味では夜よりも暗い。

「………嫌な、天気」

 彼女の零したその呟きさえも呑み込み、それでも雨は降り続ける――。




 からんっ、ころんっ。

 篠崎界が扉を開くと、その上に付いていたカウベルがそう軽やかな音を立てた。

「いらっしゃいませっ」

 その直後にそう声が響き、ぱたぱたと駆け寄る音がする。そちらに眼を向けると――。

「あ、おはようございます。界さんっ………て、大変!」

 見馴れた柔和な微笑を浮かべる、界と同年代の少女が立っていた。ベージュの北欧の民族衣装を髣髴とさせる服装をした、長い栗色の髪の何処か育ちの良さを感じさせる少女である。

 その彼女は界の姿を確認すると、浮かべていた微笑を途端に驚いた表情へと変え、界の元へと駆け寄りスカートのポケットからハンカチを出して界の服をぬぐう様に拭き始めた。

「あ、ちょっと、大丈夫――」

「駄目です! ちょっとじっとしてて下さい!」

 挨拶を返す間もなく息遣いを感じ取れる程の距離まで来た彼女に、界はとっさに口を開くが、全てを言い切る前にぴしゃりと言われ、押し黙る。

「びっしょりじゃないですか………。傘くらい持っていなかったんですか?」

「いや………。持ってはいたんだけど………」

 彼女にされるがまま、雨に打たれて濡れそぼった肩口や頬をハンカチで拭われつつ、呆れた様な同時にたしなめる様な響きを持った口調に、界は思わず言い訳を考え口ごもり、彼女の非難の視線から顔を背けた。

 傘を忘れた訳ではない。安物のビニール傘を持って来ていたが、病院から出る時に出入り口にある傘立てに置いてあった筈のそれが忽然と消えていたのだ。要は盗まれていたのだが、何故かそれをちゃんと説明する気にもなれず、界はぽりぽりと頬を掻く。

「まぁ、まぁ、朱乃ちゃん。それじゃ埒があかないわよ」

 界が何と言おうかと考えていると、不意に彼女の肩越しの向こう側からそう声が響いた。その声に少女――朱乃も気付き振り返る。それと同時に界の顔を、ばふっ、と音を立てて柔らかな何かが覆った。

「それで頭を拭いて、シャワー浴びて、制服に着替えてきなさい。服は乾燥機に掛けといてあげるから」

 顔に当たった物がバスタオルであった事に気付いたのは直後の事。それを手元に落とし視線を声のした方に向けると、そこにはカウンターテーブル越しに何処か楽しげに笑っている女性の姿があった。

 長い水に濡れた様な美しい黒髪が印象的な、朱乃と同じ北欧風のだが深いブルーをした、色違いの服装をした女性である。歳の頃は二十代前半程の女性だ。不思議と人目を惹き付ける美貌に、何処か子供っぽい微笑を浮かべ、彼女はこちらを見詰めている。

「あ………。おはようございます、夜名さん」

「はぁい、おはよう、界くん。今、言った事分った? なら早くシャワー浴びてきちゃいなさい。本当に風邪、引くわよ? 朱乃ちゃんはちょっとモップ持って来て、そこの雨水だけ掃除しちゃって」

「あ、はい、分りました」

 朱乃はそう言うと、少し名残惜しげに最後に界の肩口を拭き取ると、来た時と同じ様にぱたぱたと奥へと戻って行った。

 ごしごしと髪を拭きながら、界もその後を追って奥へと向かう。

 と、何故かいつも以上に楽しそうに微笑みながらこちらを見る女性――夜名の視線に気付き、足を止めそちらを振り返った。

「………何ですか?」

「ぅうん? いいえ、別に? 何も? ただ………愛されてる、なぁ、って」

 カウンターテーブルを挟んで正面から向き合う界と夜名。界はタオルで髪を拭く手を止め酷く憮然とし、それに対して夜名はテーブルに両手で頬杖を着いた姿勢でにこにこと何処か韜晦した様な表情で。

「………まぁ、どうでも良いですけど」

 結局、その表情から何を読み取る事もできず、だがそれをいつもの事として界は小さな溜息を零し、奥へと再び足を向けた。

 その界の後姿を夜名はやはり楽しそうに見送る。そして奥へと続く扉へと彼が姿を消すのを見届け、彼女はすっと細く目元を開き、呟く。

「二人に愛されて………。貴方は本当に幸せよ、界くん」

 誰に聴かせるつもりもない、小さな呟き。彼女はやはり表情の読めない笑みで、二人の消えた扉を見詰めていた。