区別が争いを生む、これはそうだなと思う。しかし、区別をせずに日々暮らすのは難しい。区別をなくすということは、他人が起こしたことを自分責任があると考えることかも。確かにすべての事をそう捉えられれば争いはなくなりそう。

誰も区別せずに暮らすのは難しい。そして、人を区別したがる人と付き合うのは難しい。自分が区別されたらなおさら。人を区別しない人と出来るだけ付き合い、区別する人にあえて近づかない、そこがスタートかも。あえて近づかないというのが大切。積極的に避けてはいけない。

意見が違うことを表明するのはいいが、意見の違う人を避けたり、攻撃してはいけない。なぜなら、それは区別そのものだから。仮に相手から攻撃されたら、だまって立ち去る。そして、あえて近づかない。まずはそこからかもしれない。

区別をしないで暮らすためには、相手の話をそのまま聴くことが大切。どんな人の話でも、偏見なくそのまま聴く。そのまま受け入れるのが大切。このあたりはセオリーUのダウンローディングの停止と同じ。それは心的な時間の停止とも同じ。この姿勢は区別なく暮らすための基本姿勢かも。

他人の罪ことを自分責任と感じるだけではなく、他人の成功を素直に喜ぶことも大切。他人の成功は自分の成功でもある。だから、嫉妬したり羨ましいと思うこともない。ただ区別する人はそう思うことを良しとしないかもしれない。なぜなら、その人にとってその成功は自分だけのものだから。

達観したいわけでもないし、豊かに暮らしたいとも思う。しかし、争いはなくしたい。自分の区別を意識することは、自分の思考が生み出している争いについて意識的になることかも。自分が生み出している争いを眺めたうえで、自分の行動を決めたいと思う。

twitter 2011年10月1日

関連記事:【読書記録】時間の終焉ーJ.クリシュナムルティ&デヴィッド・ボーム対話集