対話を考える上で重要な本。

時間の終焉―J.クリシュナムルティ&デヴィッド・ボーム対話集
J. クリシュナムルティ
コスモスライブラリー
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この本を読んで思ったのは対話は断片化された個人、組織、社会をつなげることではないか、ということ。すべては同じ根をもつものとして、意味を共有し繋がれば多くの問題は解決するのではないかということ。

人と自分は違うと思った時にすべては上手くいかなくなる。区別は争いを生む。争いは区別をより強固に、それが更なる争いを生む。それは最後には破滅につながる。

自分の中でも区別は生まれる。思い通りにならない自分/なる自分、目標に達しない自分/成し遂げた自分。上手くいってもいかなくても、区別が発生してしまう。そして生まれた区別は他人への攻撃につながる。

個人が何かに打ち込むことが問題ではなく、その結果を目標によって評価することが問題。たいがいの場合、その目標は自分のエゴで設定している。自分のエゴを満足させることは他人との区別しかうまない。

対話は断片化を解消する唯一の手段かもしれない。対話を行い、その中で相手をいままでの知識によらず見て、聴いて、お互いの共有できる意味を探す、それを繰り返しひとつひとつ断片化を解消していく。

断片化の解消が対話の機能だとした時に、一部の人々の結束を固め、結果、他の組織に排他的になるのは逆効果そのもの。外に開かれない繋がりを作るのは対話でないというべきかもしれない。

断片化が当たり前で、自分を他人と差別化してきた中で、この本にかかれていることは衝撃そのもの。断片化がすべての問題の根、と考えると、あらゆるものが違って見えてくる。

競争や争いからしか新しいものは生まれないと言う人がいるが、これもどうかと思う。争いの中生まれたものは、争いを加速させる面がある。そう考えると、例えどんなに便利であっても本来いるのかと考える必要があるのかもしれない。

断片化を解消するために自分は何ができるかと考えた時に、まず始めたのが、何かが出来ていない人がいたら、一緒に何ができるか考えること。自分ができることを確認する、相手の変わりになることで区別しないで相手と一体になる。

この本は面白かった。最近気になっていた、対話はどこまで開かれるべきか、対話の限界、限定的な対話の意義について自分なりに体感として理解することができた。ボームのダイアローグを読んだ人にはお勧めです。

twitter 2011年9月22日


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