最後にブログを書いてからだいぶ経ってしまった。

果たしてここに書くことが正しい判断かは分からないまま、再びパソコンの前に座っている。

 

 

新しい命がこの身に宿った。

それはとても幸せなことで、嬉しいことで、ハッピーなことのはずだ。

けれど、その感情を私は素直に受け入れることができずに、ずっと持て余して過ごした。

悪阻も相まって、私の精神状態はボロボロだった。

そんな私の心境などお構いなしに、周りは120%の祝福を向けてくる。

それが居心地が悪く、息苦しかった。

保健師や助産師に、おうたのことを言いたくなくても、出産人数と現在の家族構成の整合性が合わないことで否が応でも言わなければならない。

哀れみと、同情。

寄り添ってくれているようで、いざ本心を剝き出して悩みを打ち明ければ、受け手は持て余すような表情を浮かべる。

やはり、その道のプロと言っても、職業にしているとは言っても、自分のキャパ以上の悩みになんて何の力も持たないのだ。

悩みはある?と聞かれたから、答えたのに・・・

「今は妊娠に関しての悩みを知りたいな」と、ある意味私を拒絶する。

 

 

その瞬間、いのちの相談やら、行政が謳う相談センターなるものの意味のなさを改めて痛感した。

結局は、その場しのぎなのだ。

相談された側は、受け答えて終わり。相手を救えたという自己満足。

 

 

 

以前ここで、子供を望むことへの葛藤を書いて、さまざまなアドバイスを頂いた。

その言葉一つひとつを噛みしめて、一度だけ婦人科に行った。

年齢的なこと、おうたや娘の時不妊だったこともあり、相談の意味も込めて。

一年以上かかっての妊娠出産を経験したため、今回もそうだろうと思っていた。

けれどその一回の受診で妊娠できた。

私も旦那も驚きを隠せなかった。望んだのは私たちなのに。

 

もし年齢的に、現実的に子供が産めない体になったとして、後悔しない自信はなかった。

今はまだ迷いはあったけど、いざできなくなってしまったとき、後悔するかもしれない。

だからずっとずっと悩んでいた。

けれど今、妊娠して子供ができて、私は後悔する可能性はあるのだろうか?と自問自答した時。

子供ができて後悔する自分は想像できない。後悔するなんてことはない。

それだけは強く思えた。

 

それでもこの身に命が宿ったことで、生まれてくるのはおうたへの罪悪感。

経験していない人は口を揃えて言う。

 

”そんなの抱く必要なんてない。

妊娠したってことは、息子くんもきっと望んでいるよ。

だからあなたのところに命が宿ったんだよ。”

 

 

そんなことは分かってる。

頭では分かり切っている。

何回もそう自分にも言い聞かせた。

それでも、つわりで苦しんでいてもおなかの子が元気な証拠!と己を励ましているときにふと、おうたの写真と目が合うと、どうしようもない罪悪感に襲われるのだ。涙が止まらなく、苦しさが募るのだ。

そんなふうにお兄ちゃんへの罪悪感でいっぱいな自分自身に、今度はおなかの子への罪悪感が沸き上がる。

本当なら、新しい命の誕生に全力で向き合いたいのに。向き合ってあげられない弱い母親。自己嫌悪。

その繰り返し。

けれど、誰に打ち明けたって返ってくる答えは同じ。

 

理性で導き出せる模範的な回答ばかり。

 

 

おなかのふくらみが目立ち始め、職場でもそんなに関わりない部署の人たちからも、世間話のように声をかけられる。

「出産何回目?」

「初めての出産?」

「上の子は何歳?」

 

どの質問にだって嘘は答えない。

けれど、顔の強張りは増すばかり。

最近うまく笑えない。

 

そこに辻褄が合わないと思われようと。