私がずっと書いてきた、「言葉の魔法」は、
誰かを励ましたいという、思いの発露である。
その思いの発露は、我が子達への、励ましであり、遺言なのだ。
その自身の根幹にあるものは、仏法の哲学である。
「法華経」に書かれた、人間主義の哲学、思想を、
子供にも、わかる言葉で、優しく説いたものだ。
「あなたは、あなたのままでいい。」
「あなたにしか、咲かせられない花がある。」
「その人らしい花を咲かせるから、
存在価値って、有るんじゃないかな」
これは、御義口伝にある、
「桜梅桃李の己己の当体を改めずして無作三身と開見すれば是れ即ち量の義なり」
揺るぎない確固たる哲学が、命の奥底にあるからこそ、
言葉に一貫性があり、揺るぎない言葉となるのだ。
「砂糖菓子のような、甘甘な詩。」と、批評した人がいたが、
もう一度、「言葉の魔法」を読み返してみれば、わかる。
「言葉には、力がある」「魔法の言葉」という人がいるけれど、
言葉には本来、力はない。
力がある「魔法の言葉」は、「ありがとう」ただ一つだけである。
言葉に力を与えるのは、人である。人の心である。
言葉は、相手の成長を思って発すれば、「励まし」にもなり、
「生きる力」「勇気」を与える事も出来れば、
相手思い遣る、慈悲の心で発すれば、「優しい言葉」で、
人を癒すことも出来る。
しかし、エゴや悪意の心で発すれば、「凶器」にもなり得る。
使う側が、言葉に力を与えるのだ。
だから、私は敢えて、「言葉の魔法」と、読んでいるのだ。
「言葉を使って、魔法をかける。」ということだ。
魔法は、未熟な魔法使いには、正しく使うことは出来ない。
言葉も、同じだ。
だからこそ、絶えず、自身を、鍛錬し、
自身の心を、日々、磨き続けなければならないのだ。
思い通りにならないからと言って、誹謗中傷される、いわれはない。
そんな人に、興味も湧かないし、魅かれる事は一切ない。
価値観の合わない私に、執着するのを、やめればいい。