長かった前回の「主観性…」シリーズの後、何気に「ヘーゲル・コジェーブ・フクヤマ的”歴史の終焉”」を考察していたら、思わぬ展開になってしまった…ような感じが致しております…。昨今の「グローバリズム(グローバル型資本主義)」とは、「ヘーゲル・コジェーブ・フクヤマ的”歴史の終焉”」の”更なるダメ押しの一撃”だった…と考えれば、あらゆる意味で、非常にすんなりと理解出来てしまう様に思えてなりません。…確かに、F・フクヤマの「歴史の終焉」は、世界の「グローバリズム(グローバル型資本主義)」化への”狼煙(始まりの合図)”…であったとは思います。そして、その「グローバリズム(グローバル型資本主義)」が”一段落した…今だからこそ”、この様な考察が出来ると思うのです。私自身、結構”リアルタイム”に、この「F・フクヤマの『歴史の終焉』」は知ってはおりましたが、何故だか…イマイチ、ピンと来ない…感がありました。然り乍ら…、”2024年”にもなってしまった”今だからこそ…”視えてくる…のだと思っております。

 前回「”歴史の終焉”以降の世界はどうなるのか…?」を、前期ウィトゲンシュタイン的(同一性批判)に考察しました。そこで、今回改めて思うのは、この「歴史の終焉(終わり)」とは、ウィトゲンシュタイン的には「矛盾命題」ではないか…ということです。つまり、「歴史の終焉・世界史の果て(境界)・矛盾命題」…と考える訳です。つまり、「世界(世界史)」は、これ以上なく”語り尽くされてしまった…”のです。この「歴史の終焉」を「世界史の果て(境界)・矛盾命題」と考えれば、また新たな見解が得られると思うのです。

「矛盾命題とは、諸命題の共有性―ただし、それをいかなる命題も他の命題と共有することはない共有性―である。恒真命題とは、すべての命題の共有性―ただし、なんら相互の共有性をもたぬ全命題の共有性―である。矛盾命題は、あらゆる命題の、いわば外側で消失し、恒真命題は、あらゆる命題の内側で消失する。矛盾命題は、諸命題の最外端である。恒真命題は、実質のないその中心である。 論理哲学論考 5.143」

 前回のシリーズで、”不発気味”だった「相似性論理」は、この「”歴史の終焉”以降の世界…」にこそ有効な考え方だと思います。似たようなものに、心理学者ユングの「元型(アーキタイプ)・集合的無意識」がありますが、「終わってしまった、出尽くしてしまった…(歴史の終焉)」だからこそ、相似的・類型的な「神話・寓話・物語」的解釈が出来る…と思うのです。逆に言えば…、既存の「哲学的な諸問題・諸議論」等々は、「…まだ、終わっていなかった(終焉していなかった)から…」という考え方も出来ると思います。ヘーゲル・コジェーブ・フクヤマ(歴史の終焉)的にも、「国家イデオロギー」や「民族的イデオロギー」のような”主だったイデオロギー闘争は終わった…”と考えるべきです。そういう意味でも、「…世界は整然と見渡せる(世界は統一された)…」と思うのです。

 そういう意味では、この「終わった後の…」今現在というのは、かなり”開けている…”ような状況に思えてしまいます。次回は、改めて「同一性・等価交換」について、この「歴史の終焉」から考察していきたいと思います。