今回は、…では、この「歴史の終焉(世界の統一・グローバル型資本主義」の後は、一体どうなるんだ…という考察をしていきたいと思います。前々回の考察でもそうでしたが、ここ20年位の「グローバリズム(グローバル型資本主義)全盛」を経て、この「世界」は良くも悪くも”標準化・平準化”された…と思います。ヘーゲル・コジェーブ・フクヤマ的「歴史の終焉」は、この「グローバル型資本主義」によって完遂された…というのが、前回の考察でした。F・フクヤマの「歴史の終焉」から既に30年以上経っておりますが…、改めて「歴史の終焉(世界の統一)」の後の世界…を考察していきたいと思います。

 この「グローバリズム(グローバル型資本主義)」によって、「歴史の終焉・世界の統一(統合)」がなされた…と前提して、改めてウィトゲンシュタインの「論理哲学論考 4.243」を見てみると、

「二つの名が記号しているのは同じ事物か、それとも二つの別な事物なのであるかを知りもしないで、それらの名を理解することが出来るであろうか?それらが意味していることは同じことであるのか、それとも別なことであるのかを知りもしないで、それら二つの名を含む命題を理解することが出来るであろうか?

 例えば、英語の単語の意味と、それと同じ意味のドイツ語の単語の意味とを知っているとき、両者が同じ意味を持つことを私は知らない、とは言えない。両者を互いに翻訳出来ない、とは言えない。~」

 ここ数回の考察を鑑みて…改めて考えれば、「インタラクティブ・モナドロジー(対話型単子論)」で図式化するまでもなく(?)、この「両者(英語とドイツ語)」は「お互いに”組み込まれてしまっている”関係」であると言えます。日本語には、独特な”和製英語”がありますが…、つまり「英語の一部はドイツ語であり…」「ドイツ語の一部は英語である…」という関係性です。…これは、「陰陽互根」や「身土不二」のような、東洋思想的「太極思想・陰陽思想」にも通ずる…と考えてもいいのではないでしょうか。以前の「プラトンの”探求のパラドックス”」の考察時点では、やや判然としない感がありましたが、今回の様なヘーゲル哲学的「終焉(終わり)」から考えると非常に分かり易いのでは…と感じております。

 そして、ウィトゲンシュタインの「論理哲学論考 4.243」では、更に続けて、

「とすれば、”a=b"のような、あるいはそれから導出された諸表現は、もともと要素命題でもなく、何か別な仕方で意義を持てるような記号でもないのである。」

とあります。これは、正に「おカネが要らない…(非決済型社会)」を示唆している…などと(相変わらず、勝手に…)考えている訳なんだが…、長くなってしまったので、また次回に続けたいと思います。