「なるほど、はじめは次のように考えられるかもしれない。7+5=12という命題は単に分析的な命題であり、この命題は七と五の和の概念から矛盾律によって生じると。しかし、より詳細に考察すると、七と五の和の概念は、両者の数をひとつの数へと統合するより多くのことは含んでおらず、このことによっては、両者をまとめるこの単一の数がどのようなものであるかは断じて思考されないことが分かる。十二という概念は、私が単に七と五のかの統合を考えることによって既に思考されているわけでは決してなく、そのような可能な和という私の概念をさらにどれだけ長い間分解しても、そのうちに私は十二を見出すことはないだろう。」

 …これは、カントの「純粋理性批判」の序文になります…。「ウィトゲンシュタイン 数概念」のネット検索で見つけた、「カントにおける規則として数概念と算術的判断の総合性 片山光弥 日本カント研究」の論文からの引用です。カントと言えば”近代哲学の代名詞的存在”ですが…、250年以上前に、既に”このような考察・議論”があったというのには、素直に驚いてしまいました…。上記の「カント(純粋理性批判)の序文」を入力しながら、この(カントの)考え方は、当ブログの「インタラクティブ・モナドロジー(対話型単子論)」にも通ずるものがあるなあ…などと考えております…。

 前回、「ウィトゲンシュタインの”数概念”」ともいえる「論理哲学論考 4.128,5.453,6.021,6.022」を紹介しながら、「ピュタゴラス・プラトン路線(西洋形而上学・西洋哲学)」の”ブレークスルー”になる…などと述べました。とは言うものの…、既に”カント”でもこのような考察があったんですね…。

 先程の「ネット検索」で見つけた、入江俊夫(千葉大学院博士)さんの論文「概念形成の哲学のためにーウィトゲンシュタインの数学の哲学ー」「内的関係の生成とウィトゲンシュタインの数学の哲学」「ウィトゲンシュタインの操作概念のある重要な側面について」は、大変参考になっております。「哲学早わかり」というサイトを運営されている平原卓(大学講師)さんによると、

「ウィトゲンシュタインによると、要素命題に論理操作を行うことで、複合命題が作られる。論理操作とは、『否定』や『ならば』、『かつ』などによって命題同士を結び付ける操作のことをいう。ウィトゲンシュタインは、論理操作の反復可能性が、世界記述の可能性を充たしていると考える。」

と解説されております。…多分(恐らく)この考え方は、弟子(?)であるアラン・チューリングの「チューリングマシン」のアイデアに繋がっているのでは…と(勝手に)思うんだが…。因みに、自分の愛用する「ウィトゲンシュタイン 論理哲学論 山元一郎訳 中公クラシックス」では「演算(操作)」と訳されております。そこで…思うんですが、「数」とは?、最も数らしい(?)「論理学的な意味での”数概念”」とは、この「操作(演算)の回数」であり、即ち「順番(逐次性・継次性)」ではないでしょうか…。

 「演算(操作)を演算(操作)自身の結果に繰り返し適用することを、演算(操作)の継次的適用と呼ぶことにしよう~。 論理哲学論考 5.2521」

 「論理哲学論考 5.25」には、「~演算(操作)と関数は混同されてはならない~」とありますが、ともあれ、この「(継次的な)操作(演算)の回数」が、”論理哲学的な意味”での「数概念」になり得るのではないでしょうか。…もっとも、「数とは、演算(操作)の冪である。論理哲学論考 6.021」とはあるんだが…。

 …これには”オマケ”がありまして…、「論理哲学論考 5.252」では、

「そのような仕方においてのみ、ある形式系列のなかで項から項へ(ラッセルとホワイトヘッドのいう階型のなかで、タイプからタイプへ)前進することができる(ラッセルとホワイトヘッドは、このような仕方での前進の可能性を認めてはいないが、そのくせ、繰り返しそれを使用している。)」

…あれだけ、”師匠ラッセル”の「階型理論(タイプ理論)」を批判しておきながら…。当ブログの「一次元性・順番性」もまんざら”的外れ”ではなかった…とは思うんだが…。