当ブログが、”ウィトゲンシュタイン尽いて”しまうようになって、早三年以上過ぎてしまいました…。ドゥルーズやデリダやフーコーでもなく、自分がウィトゲンシュタインにハマってしまったのは、彼(ウィトゲンシュタイン)の思想哲学が、(ベタな言い方なんだが…)所謂「西洋哲学・形而上学のパラダイム(規範)」を”いい意味で論理的に(?)”超えている…と思ったからです。一部では(ウィトゲンシュタインを)「哲学を二回(”前期”と”後期”で)終わらせた男」とも言われますが…、私自身としては”ウィトゲンシュタイン哲学”の肝要は、「論理哲学論考 4.112」にもあるように、「哲学の目的は、思想を論理的に明澄化することである~」だと思っております。昨今の科学やイデオロギー等を取り巻く言論状況は、正しく”混迷状態”にあると言えますが、こういった状況にあって、ウィトゲンシュタインの云う「~暗濁混迷の思想を、明澄なものとし、鋭く境界づけられたものにしなくてはならない。同 4.112」という考え方は、”至極真っ当”だと思うのです。

 …凄く素朴な疑問なんだが…、「論理(理屈)」とは本来、肥大化し膨張していくものなのだろうか…。変な言い方だが…、「論理」や「理屈・能書き」は、多ければ多い程良くて、優れているものなのだろうか…。正直、その逆だったのではないだろうか…。「多様性(ダイバーシティ)」が、よくもてはやされる傾向にありますが、これは”悪い意味”での「並列主義」みたいなもので、”悪平等”に近いものではないだろうか…。…大の大人が”何も知らない”児童や園児に対して「将来の夢は…?」などと質問したりする場面がよくありますが、これは正直”愚問”と言っていいのではないか…。低年齢の児童達が「知り得ない(未知)」な事を、”半ば強制的に回答を強いる”ような質問は、些か”配慮・知性”に欠ける行為では…。有名な「語り得ぬことについては、沈黙しなければならない。論理哲学論考 7」のような”知的”姿勢は、大事だとは思うんだが…。以前にも述べましたが、「(ウィトゲンシュタインの)”写像理論”」の画期性とは、「論理」を「論理絵」として、”平面的に考察した”ことにあると思っております。つまり、「絵(論理絵)」のように、「論理」を”二次元・平面”的に扱うことは、「論理」の”階層化・複雑化の回避”でもあります。「論理哲学論考」では、「同一性」と共に”師匠ラッセル”の「階層理論」も露骨に批判されていますが、彼(ウィトゲンシュタイン)の”哲学的姿勢”としては「論理の複雑化」を回避しようとしているのは明らかに思えるのです。無論、当のウィトゲンシュタインにしてみれば、純粋な意味での”論理哲学論考・哲学探究”だったんだろうと思いますが…。

 では、また逆に「論理の複雑化・肥大化した世界」とは、どんな世界なんでしょうか。…言うまでもなく”今現在のような(世界の)状況”だと言えると思います。今日日、「AI(人工知能)」や「量子力学・量子コンピューター」が盛んにもてはやされておりますが、「処理速度の速さ」や「更なる(論理の)複雑化・多様化」で解決され得る(?)類いの問題なのでしょうか…、私には”違和感しか感じ”ません…。ウィトゲンシュタインのような(論理に対し)「明瞭化・境界性」を求める姿勢と、当たり前に「ゆらぎ」を語ってしまうような「量子力学(確率論的多様性の世界観)」とは、酷く対照的に思えてなりません。「哲学を(二回)終わらせた…」と言われますが、ウィトゲンシュタインの(”論理哲学論考”の)ように考えれば、「(論理は)ある一定範囲(論理絵・論理平面)に収まっていく(べき)…」のであり、明瞭化され得るのです。悪い意味で「(量子力学的)ゆらぎ」を考えてしまうと、”論理的視界のスッキリしない”ただの「迷い(世迷い言)」のようになってしまうと思うんだが…。(ウィトゲンシュタインの云うように)「論理性」とは、いい意味で「明瞭的(スッキリ)」であるべきであり、そしてその上で、今回の”シリーズタイトル”である「主観性・一元論的・逐次的(シーケンシャル)・順番的」という考え方に繋がってくるワケです…。つまり、ウィトゲンシュタインの云うように、物事が「(論理的に)明瞭化されていたら…」、あとは「主観的」に自分自身の判断で、物事を順次遂行するだけでいい…という考え方なのです。…このように考えていけば、ウィトゲンシュタインが「”独我論的”になっていった(後期は特に)…」と言われるのは、寧ろ”論理的な意味でも”当然のような感じがするんだが…。