ここ数回、「同一性・等式(=イコール記号)」を軸に、ウィトゲンシュタインの「論理哲学論考 6.2323、6.243」や「プラトンの探究のパラドックス」等を交えながら考察してきました…。当ブログ的には、一応ですが「”問い(命題)”に対する”答え(真偽)”のような”同一性”よりも、その関係性の方が遥かに重要である…」という見解に至りました…。つまりこの「同一性・等式(=イコール記号)」問題の核心は、「”答え”や”真偽”という同一性を求める」という事にはなく、ただ「”同等である、同じ様な意味である”を表現しているに過ぎない…」という事になります。

 ウィトゲンシュタインの「論理哲学論考」には、

「数とは、演算の冪である。同 6.021」

「数概念とは、あらゆる数に共通なもの、つまり数の一般形式に他ならない。数概念は、可変的な数である。そして、数の同一性という概念は、特殊な数の同一性すべての一般形式である。同 6.022」

とあり、これは”師匠ラッセル”と共に「プリンキピア・マテマティカ(数学原理)」を著したアルフレッド・ノース・ホワイトヘッドの「人は数学のおいて思考するのではない、計算するのである…」という考え方に共通するものがあります。ここで言う「計算」とは「操作(オペレーション)」に近いものではないでしょうか。つまり、ただ「規則(計算ルール)に従って操作して(それをやって)いる」だけ…というものです。これって案外、重要な指摘ではないでしょうか。

 ここ最近、急激に取りざたされてきたのが、「ChatGPT」を筆頭とした「AI(人工知能)」による「AI脅威論」です。ここで問題にすべきなのは、「AI(人工知能)に仕事を奪われてしまう…」のような”やや下世話な”脅威論ではなく、この「AI(人工知能)の回答」というのは、「ただ”回答している(計算している)だけ”に過ぎない…」ということなのです。”そもそも論”のようですが、問題なのは「AI(人工知能)によって仕事が奪われてしまうような社会」であり、「それ(AI)を脅威に感じてしまう我々(一般ピープル)」の方だと思うのです。

 例えば、学校教育での「体育の起源」というのは、児童や生徒達の健康増進の為ではなく、大量生産の為に「(児童生徒の体格を)工業規格に合わせるのが目的だった…」という話しを何処かで読んだ記憶があります。やや陰謀論的ではありますが…、以前から当ブログで言及してきましたが、「産業革命」と「近代金融制度」は、”ほぼ一体のもの”と考えるべきなのでしょう。もはや、「大量生産・大量消費の時代」ではないことは誰の目にも明らかであり、資本主義社会とは言え「金融(おカネ)の世界」も日に日に収拾がつかなくなってきている訳ですから、当ブログの主張する「おカネの要らない社会」や「生産と消費を分けるな…」等もまんざらでもない…とは思うんだが…。