今回も、(またしても…)ウィトゲンシュタインの「論理哲学論考」を再考していきたいと思います。今回のシリーズ㉜でも引用した、

「二つの名が記号しているのは同じ事物か、それとも二つの別な事物なのであるかを知りもしないで、それらの名を理解することが出来るであろうか?それらが意味していることは同じことであるのか、それとも別なことであるのかを知りもしないで、それら二つの名を含む命題を理解することが出来るであろうか。例えば、英語の単語の意味と、それと同じ意味のドイツ語の単語の意味とを知っているとき、両者が同じ意味を持つことを私は知らない、とは言えない。両者を互いに翻訳出来ない、とは言えない。とすれば、”a=b”のような、あるいはそれから導出された諸表現は、もともと要素命題でもなく、何か別な仕方で意義を持てるような記号でもないのである。 論理哲学論考 4.243」

 これは「翻訳のパラドックス」でもあり、プラトンの「探究のパラドックス」と同様と考えられます。ここで、ウィトゲンシュタインの云う、”英単語a”と”独単語b”との関係を再考したいと思います。この「翻訳のパラドックス(探究のパラドックス)」とは、「変換(変換論理)・交換(交換論理)」から考えてみてはどうでしょうか。そして、思想・哲学で重要とされる「他者性(自己と他者)」の問題でもあると思われます。見方を変えると、これは俗に言う「マルクスの”命がけの飛躍”」ではないでしょうか…。必ずしも「商品が売れる(おカネと交換される)…」とは限りません。こういった”危うい状況”を、マルクスは「命がけの飛躍」と表現しましたが、これは”当ブログ的には”「コミュニケーション(対話)性の問題」と考えます…。

 早速、”話題のチャットGDP”で「プラトンの探究のパラドックス」を尋ねてみると、「背理1:探求する対象を知らなければ探求できない。背理2:一方で、探求する対象を知っていれば、探求する必要がない。」との回答でした。これも内容的には、前述したウィトゲンシュタインの「論理哲学論考 4.243」と殆ど変わりません。ここで「コミュニケーション(対話)的」に考えれば、「コード(同一性・変換性・交換性)」の問題だと思うのです。「商品が売れるかどうか分からない…」「言葉が通じるかどうか…」「(自分が)受け入れられるかどうか…」は、「他者性(自己と他者)」の問題であり、それは必然的に「コード(同一性)」の問題になってくると思うのです。

 言うまでもなく、有名なドゥルーズ-ガタリの「コード化・超コード化・脱コード化」の概念は無視出来ませんが、ここは、敢えて単純に「コミュニケーション的」に考えてはどうか…。ここで図式化すると、

 

            同一性・変換・交換

     モナドA   (命がけの飛躍)⇒    モナドB

    (自己側)    ⇐(対価の貨幣)   (他者側)

     売り手                 買い手

 

 ここで「命がけの飛躍」をするのは、「モナドA(自己)側」の「(売れるであろう)商品」であり、それは、どんな形であれ「モナドA自己)側」の同一性であるより他ありません。しかもこれは、事後的に”売れた(貨幣と交換出来た)”、”受け入れられた”故の「同一性」であり、結果的にも「同一性変換(コード化)」としか言いようのないものです。ここで再び、”ウィトゲンシュタイン”に戻って考えれば、数学的な「等式(=イコール記号)」による「変換・交換」は、「他者性・差異性を前提にしている」のではないだろうか…。故に彼(ウィトゲンシュタイン)は「等式(=イコール記号)」を使用を回避した…とも考えられるのです。…凄い微妙な話しですが…、数学的な「等式(=イコール記号)」による「変換・交換」とは、「他者性」が前提としてあり、それは同時に「差異性」でもあり、更に「同一性」の問題でもあるのです…。これは、我ながら(?)非常に面白い考察だとは思うんだが…。