(前期)ウィトゲンシュタインの「論理哲学論考 4.243」には、次のような興味深い記述があります。
「二つの名が記号しているのは同じ事物か、それとも二つの別な事物なのであるかを知りもしないで、それらの名を理解するが出来るであろうか?それらが意味していることは同じことであるのかを知りもしないで、それら二つの名を含む命題を理解することが出来るであろうか?例えば、英語の単語の意味と、それと同じ意味のドイツ語の単語とを知っているとき、両者が同じ意味を持つことを私は知らない、とは言えない。両者を互いに翻訳出来ない、とは言えない。とすれば、”a=b”のような、あるいはそれから導出された諸表現は、元々要素命題でもなく、何か別な仕方で意義を持てるような記号でもないのである。」
これは、「同一性・等式(=イコール記号)」に関する非常に重要な考察だと思います。分かり易いように図式化すると、
”英単語a” 同一的?相似的? ”独単語b”
(モナドA) ⇔ (=イコール記号) ⇔ (モナドB)
”a"の意味 同じ意味? ”b”の意味
英語側 翻訳・変換? ドイツ語側
さらに、ウィトゲンシュタインは「論理哲学論考 5.5303」で、
「ついでに言えば、二つの事物について、それらが同一であると語ることは、非意義的である。そして、一つの事物について、それは自己自身と同一であると語ることは、何事も語っていないことである。」
とあり、「同 6.2322」でも、
「二つの式が同一であることは、わざわざ主張できることではない。というのは、両者の意味について何かを主張できるためには、当然に両者の意味を知っていなくてはならないが、両者の意味を知ることによって、両者は同一なことを意味しているのか、それとも別なことを意味しているのかということも、既に知られているはずであるから。」
続く「同 6.2323」でも、
「等式は、そこから二つの式を観察すべき視点だけを、即ち両者の意味同等性という視点だけを、特色づけているに過ぎない。」
という記述があります。これらの(ウィトゲンシュタインの)記述に、正直「何が言いたいんだ…、何を言っているのだろう…」という感じも当然あると思います。…というか、自分的には”ここら辺”は、今後ブログを展開していく上でも非常に重要ではないかと考えてはいるんだが…。改めて、インタラクティブ・モナドロジー(対話型単子論)」で図式化すると、
(コミュニケーション)
”英単語a” 同一的・相似的 ”独単語b”
(モナドA) ⇔ (モナドB)
英語側 意味同等性 ドイツ語側
(差異性故の連続性)
ここで、ウィトゲンシュタインの云う「…二つの事物について、それらが同一であると語ることは、非意義的である…」を、敢えて逆に考えて、「インタラクティブ・モナドロジー」的に”英単語a”と”独単語b”との「差異性(様々なバックグラウンドも含めて)」があるからこそ「繋がっている・コミュニケーションがある」と考えるのはどうでしょうか…。無論これは、単なる「”英単語a”は”独単語b”である…」な同一的解釈ではありません。逆に、「”英単語a”と”独単語b”(意味的には同等であろうが…)との”差異性があるが故の”コミュニケーション(繋がり)の連続性である…」なのです。つまり、”英単語a”と”独単語b”との、国柄や文法の違い、歴史的バックグラウンドも含めた「差異性」こそが、逆にこの二つを結びつけている…と考えてしまうのです。「等式は、そこから二つの式を観察すべき視点だけを、特色づけているに過ぎない」のような、等式(=イコール記号)の持つ数学的な「交換法則(交換論理)」を否定しているような指摘も非常に重要と思われるのです。
つまり、ここで”英単語a”と”独単語b”との間で起こっていることは(?)、その(様々な)差異性故のコミュニケーションの連続性(繋がり)であり、逆に、”英単語a”と”独単語b”が(全くの)同一であったら(英語がドイツ語…?)、そもそものコミュニケーション(繋がり・対比)の意味(意義?)がないのでは…。
改めて思うのですが、”ここら辺(同一性=イコール記号)”に関するウィトゲンシュタインの記述でも、「交換論理・変換論理(交換法則)」には、余り触れられていないように感じます。…というか、数学的な「交換論理・変換論理」は”メタ論理的”で、パラドックス等の生じやすい「階層型論理」になってしまうからかなあ…。言うまでもなく、”当ブログ的には”「お金(貨幣)」とは、「交換論理(交換様式)」ではあるんだが…。