当ブログ謹製の「インタラクティブ・モナドロジー(対話型単子論)」は、「ヘーゲルの弁証法批判」的な意味合いになるのでは…と常々考えておりましたが、(当ブログのメインコメンテーターであるgd-fgさんも言及されていたので…)改めてネットでリサーチなんかしてみたりすると、意外なことが分かりました(正直”ヘーゲル”を誤解していた…)。

 例えば、「デカルトの方法的懐疑」、「ウィトゲンシュタインの”命題の一般形式”」、「チューリングマシン」も、基本的な考え方は同じではないでしょうか。「(方法的)懐疑」や「演算」を繰り返すことで「真理、世界は完全に記述できる(但し限界はある)、答え(論理判定)」に行き着く…という感じです。これは、「ヘーゲル弁証法」も基本的には同様で、「正・反・合」の「止揚(アウフヘーベン)」を繰り返すことで、高次化され「絶対精神・神」に行き着く…と考える訳です。

 あまりにも有名な「ヘーゲルの弁証法」ですが、先達のカント的な「主体(自分)」と「客体(世界)」の分別が、「主体と客体の弁証法運動(自らを措定する運動)によって統合される…」というような考え方です。何となく…「インタラクティブ・モナドロジー(対話型単子論)」とも相通じるものがあるではないですか…。「インタラクティブ・モナドロジー(対話型単子論)」で最も重要とされる「コミュニケーション(対話)の連続性」と、「弁証法運動による止揚(アウフヘーベン)」とは非常に類似性があるように思えるのです。

 恐らく…、この”(ヘーゲル哲学に対する)誤解”の原因は、それを理解・解釈する”我々側”にもあるのではないか…。それこそ「インタラクティブ・モナドロジー」的に考えれば、この「ヘーゲル弁証法」の「止揚(アウフヘーベン)」とは、「答え、回答、論理判定」のようなハッキリとした”何か”ではない…のではないかと思うのです。そして、これは”具体的な何か…”ではなく、(ヘーゲルの云う)「”絶対精神・神”へのベクトル(方向性)」のようなものではないでしょうか。そもそも、「止揚(アウフヘーベン)」は「相反するモノの”弁証法運動”」ですから、容易く”理解・解釈・言い換え・表現”し得るものでもなかったのです…。つまり、我々は日々「真理」を追求しておりますが…(?)、「ヘーゲル弁証法」に於いての「絶対精神・神・真理」とは、あくまでも結果であり、最終到達点でもある故に、(単純な意味での)卑近な「弁証法運動」に、直接的な”真理”や具体的”意味(何か)”、即ち「同一性」を見出すことは難しかった訳です(各個人の感覚の問題はあるんだが…)。