…今までの、当ブログの一連の考察は、「インタラクティブ・モナドロジー(対話型単子論)」を筆頭に、謂わば「コミュニケーション哲学」的な要素が強いと(我ながら)感じます…。とは言え、既存の「メディア論(マクルーハン)」等の「コミュニケーション学」は、殆ど考慮に入れておりません(単なる勉強不足なんだが…)。当ブログ謹製の概念群「ウイルス論理学(寄生体論理学)」、「インタラクティブ・モナドロジー(対話型単子論)」、そして、今回のシリーズでもある「主観性論理・非同一性論理・相似性論理・一次元連続性論理」だけで”(十分)イケる…(?)”と踏んではいるんだが…。

 「コミュニケーション学・コミュニケーション哲学」を考えていく上で…、否(いや)、その前に…、ご存知”レジェンド”こと柄谷行人氏の「交換様式」を先に考察すべきではないだろうか…。その方が、色々と(考察の)整理がつきやすいと思います。…自分も、ある程度は”カラタニスト(柄谷行人マニア)”の自覚はあるんだが…、氏の長年の思索のテーマは「交通(概念)・普遍性」だったのではないかと個人的には感じております…。その結実が(近年の)「交換様式(A~D)」だと思ってはいるんだが…。だがしかし…、この「交換様式」というのは、(当ブログ的には)「交換論理(=イコール記号)」であり、即ち「同一性論理」…と言っていいのではないだろうか…。無論、この「交換様式」が、「交換論理(=イコール記号)・同一性論理」であるから悪い…というワケではありません。でもそれならば、当ブログ的には「西洋形而上学・西洋哲学(ピュタゴラス・プラトン)路線」上でしかない…と思うんだが…。恐らく…ですが、(柄谷行人)氏が、ここに来て”カント回帰”ともいえる路線(『トランスクリティーク カントとマルクス』)だというのも非常に頷けるような気が…。そして、この「トランスクリティーク」と「インタラクティブ・モナドロジー(対話型単子論)」は発想的は、かなり似ているような気がするんだが…(いっそのこと、カントとマルクスの『インタラクティブ・モナドロジー』的解釈の方が…?)。

 ここで改めて問題なのは、”論理哲学的”な意味での、「『交換様式』が成立していること自体」であり、それを可能にしているのは、この「同一性論理(=イコール記号)」に他ならない…ということです。これは、ウィトゲンシュタインの云うように(数学的な意味合いでもありますが)、

 

 「数学とは論理的方法である。数学の諸命題は等式である。故に疑似命題である。 論理哲学論考 6.2」

 

とあり、”疑似命題である(答えのない命題、終わりなき世界、…謂わば収拾の付かない事態)”とまで断言してしまっているのです。

 ここで、「インタラクティブ・モナドロジー(対話型単子論)」に当てはめれば、「(数学の)=イコール記号」に相当する重要なのが、「(コミュニケーションの)連続性」ということになります。「コミュニケーション(対話の応酬・受け答え)」の連続性が全て…と言っても過言ではありません…。…嫌ならば、(コミュニケーションを)止めればいいのです…。そこにこそ、「コミュニケーション(対話)」の対等性、平等性があるのです。だから、常に気を抜けないし、大小強弱ではない(窮鼠猫を嚙む、蟻集まって樹を揺るがす)のです。