今回は「情報(差異)」について、(またまた)改めて考察していきたいと思います。…単刀直入に言ってしまえば…、「動いていない”モノ(情報)”は”情報”ではない(”情報・差異”とは動いてこそナンボ…)」ということです。以前、当ブログで古典物理学の「絶対空間」を批判したりしたのですが、これこそ「同一性優位」の最たるもの(?)とは思うんだが…。今回のシリーズでも、東洋的な”無常観”思想を何回か紹介して参りました…。有名な、鴨長明「方丈記」の冒頭”ゆく河の流れは絶えずして、しかも元の水に非ず。”や、全ては万物流転(ヘラクレイトス)し、諸行無常であるというものの考え方です。非常に東洋的な思想と考えられてきましたが、このような、”絶え間ない変化、運動”こそが「情報・差異」を生む…と考えるべきなのです。逆に考えると…、”時間が止まった(”変化・運動”が全くない)”状態では、「情報・差異」は発生しないのです…。同じ様な仏教用語で”生生流転”がありますが、このような”変化・運動”があるからこそ、”生成・発生”があると思うのです…。

 フト、今思った(降りてきた?)んだが…、「マルクス経済学」での(資本家が労働者に対する)「搾取」とは、「ウイルス論理学」的には「寄生する」と同義ではないのか…。すると、まるで立場が逆転してしまうような、「資本家(寄生体)」、「労働者(寄主、宿主)」という図式になってしまうんだが…。