前回は、「インタラクティブ・モナドロジー(対話型単子論)」の”おさらい”のようになってしまいましたが、今回は”新たなフェーズ”に突入したいと思います。ざっくり言ってしまうと、「物事は表裏一体である」という様な考え方です…。既存の西洋的考え方では、方向性として「(何でもかんでも)バラバラにする、分離させてしまう」傾向にあります。当ブログの「非決済型社会(配給型社会)」とは、「バラバラにさせない、分離分割させない(社会)」という意味でもあるのです…。

 「表裏一体」で思い起こさせるのが、「シニフィアンとシニフィエ」、「言語の中には対立関係しかない」というソシュールの言語哲学です。自分としては、”ソシュール哲学のような西洋的アプローチ”よりも、もっと”東洋的な”「(陰陽道や韓国の国旗にもあるような)太極思想」的なアプローチの方が、より新鮮で、尚且つ面白いと思います。…例えば、「文化人類学」を「インタラクティブ・モナドロジー(対話型単子論)」で解釈すると、

 

    モナドA     コミュニケーション   モナドB

   (A国の文化)      ⇔       (B国の文化)

 

 ここで、「A国の文化(モナドA側)」を考える時、既に「B国の文化(モナドB側)」を意識してしまっている…、と考える訳です…。つまり、「A国の文化」を意識(自覚)する時、既にその向こう側(?)には、「B国の文化」があったりする…のです。こういう意味でも、「A国(の文化)」と「B国(の文化)」は、「不即不離・表裏一体」と考えられてしまうのです…。こういう風に考えると、「コミュニケーション(対話)」とは、本来(?)、”決済”のような、分断や分離分割をもたらしてしまうものではなく、「(何事も)不即不離・表裏一体」を再確認するような作業にも感じられてしまうのです…。

 思想家・哲学者の東浩紀さんの最新の著作は「訂正する力」となっておりますが、これも「コミュニケーション(対話型)哲学」とも言えませんか…?(…読んで無いんで…)表紙を見る限りでは(?)、「”訂正可能性哲学”の実践&応用編!」とありますが、氏のデリダ論(”存在論的、郵便的-ジャック・デリダについて”)も含めて、個人的には「コミュニケーション哲学」と解釈した方が、よりスッキリすると思ってしまうんだが…。