ルターの名言に「一つの噓は七つの嘘を生む」というのがあります。同じ様に、スウィフトにも「一つの噓をつく者は、自分がどんな重荷を背負い込むのか滅多に気が付かない。つまり、一つの噓を通す為に別の嘘を二十発明せねばならない。」とあり、これは結構意味深な気が…。

 今現在我々は、日常生活において何気にネット検索を使用し、ウィキペディア等で簡単に調べられますが、一昔前はいちいち国語辞典や百科事典を引いていた訳です…。ここで言いたいのは、「…世の中便利になったものだなあ…」ということではありません。”一つのモノ(事物)を定義する”ということは、連鎖的に他の事物も定義しなければいけない事態になってしまうのでは…という事です。これが、面白いんだか皮肉なんだか、上記のルターやスウィフトの名言とも一致してしまうように思えてならないのです…。

 「―ある語の意味とは言語におけるその使用である―」と、ウィトゲンシュタイン「哲学探究 43」にはありますが、彼も敢えて”定義を避けている”ように感じるのです。例えば、「百聞は一見に如かず」や「…言い訳をすればするほど嘘くさくなる…」というのがありますが、これらも同様ではないのか…。かつて、”キノコ研究家”でもあった前衛音楽家ジョン・ケージが、「キノコは研究すればするほど分からなくなる…」と語っていたらしいのですが、これも、逆の意味で同じですよね…。

 ここで「デリダの”差延(ズレ)”」を持ち出してしまうのは、余りにも”ベタ”で面白くないように思えます。”前期ウィトゲンシュタイン”「論理哲学論考」の「恒真命題」を出発点に考えていくというのはどうでしょう…。これも六回前の当ブログ「理屈・言い訳・理由付けの要らない社会とは…」でも述べましたが、「恒真命題の一般化(存在)」にも繋がってくると思うのです。「恒真命題」とは、「AはAである、俺は俺だ…」の”(同語)反復”になりますが、これは”形式”とは言えないとして、ウィトゲンシュタインは「一般的形式」ではなく、「恒真命題の一般化」としたのでしょう。…理屈(論理)や言い訳・説明はおろか、「何も言う必要すら無い…」というのであれば、それは最早、説明不要にして”一見に如かず…”の「実体・それ自身(自体)・存在」ということにはならないでしょうか…。”独断的”に思われるかもしれませんが、今後、社会や経済、科学を考えていくにあたって、唯一と言っていいほどの”ブレークスルー(突破口)”になると思ってはいるんだが…。